こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

ヤン・ブロマート 『社会言語学とグローバリゼーション』 (CUP, 2010)


The Sociolinguistics of Globalization (Cambridge Approaches to Language Contact)

The Sociolinguistics of Globalization (Cambridge Approaches to Language Contact)


主題はタイトルのとおり、社会言語学の観点からグローバリゼーションを考えるというもの。ただし、「従来の社会言語学の枠組みからグローバリゼーションに関係ありそうな現象を分析してみました!」という本ではなく、むしろ「伝統的な社会言語学の作法」に対する対抗言説という意味合いが強い。


グローバリゼーションと言語の関係を論じた先行研究はすでに多数存在するが、それらのほとんどには次のような問題があるという。

古典的な言語学・社会言語学パラダイム
言語を静的・システムとして見る古典的な言語観は言語グローバリゼーションの分析には不向き。グローバリゼーションに伴うダイナミックな言説的現象を捉えられない
歴史的視点の不在
現代のグローバリズムを特別な時代であるかのように記述する「現在主義」の研究が多い。現在主義者が現代のグローバリゼーションを見た時、肯定的な人は「うわー!グローバル!素晴らしい時代になったねー!」という反応になるし、否定的な人は「うわー!グローバル!たいへんな時代がやってきたー!」という反応になる。反応は180度違うが、過去にも大なり小なりグローバル化が存在したことを無視している。


以上をもとに、おそらく著者がいままでに分析してきた事例を紹介しながら、グローバリゼーションと言語(言説)、歴史過程、そして権力や不平等の問題に切り込んだものである。そういう問題意識からすれば当然かもしれないが、英語帝国主義論への反論もある(ただし、単なる「英語の拡大」礼賛ではない)。

感想

ほぼすべての分析に異論はないのだが、正直なところ、どれも当たり前の話をされているような気がして、読み進めるのがなかなかつらかった。


たとえば7章で、タンザニアの言語事情を見れば、ナイーブな英語帝国主義論は再考を要するよ、という話をしているが、僕からするとそんな「ナイーブな英語帝国主義論」を今どき言っているような人はいるのかよ、という気分である(一般の人とか院生とかならいるのかもしれないが研究者にいるのだろうか)。その点で、「ワラ人形(straw man)」を攻撃しているようであまり気分は良くない。

一応、タンザニアの事情とは以下のようなもの

  • スワヒリ語振興、アフリカ(ウジャマー)社会主義といった脱植民地政策・脱英語政策のタンザニアで、英語への対抗勢力であるはずのスワヒリ語が現地語を駆逐していっている現実がある
  • タンザニアには近年、大量の英語が流入しているが、現地人の英語使用を丁寧に分析すると、みな自身のニーズや創造性にしたがって「現地化」を行っており、単純な英語帝国主義とか英語の侵略とかでは語れない。


2つ目の点についてコメント。ミクロの次元では人々が自律的に英語を使っていることと、マクロの次元(教育政策や国際関係など)では英語化の並に抗することができないことは普通に両立すると思う。そもそも、英語帝国主義のミクロ次元での受容・抵抗・領有(アプロプリエーション)というのは、1990年代から言われていることである(例えば 英語帝国主義論における超基礎文献である S. Canagarajah, Resisting Linguistic Imperialism in English Teaching, OUP, 1999)。なので、いまさらそんなこと言われても・・・という気がする。


また、6章のグローバリゼーションとは言っても、依然、国家をはじめとした「前グローバル」型権力は、近代的な社会言語観を現存する多様性に強引に適用し多くの「犠牲者」を生んでいるという話。言語政策なり教育政策なり、「国家」を分析枠組みに常に入れている研究者からすれば、こんなことは当たり前のような気がするが、社会言語学では「グローバリゼーション=脱国家化」と考えている人が多いのだろうか?ちょっとそうとは思えないのだが・・・。