- 作者: 牲川波都季
- 出版社/メーカー: くろしお出版
- 発売日: 2012/02/15
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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戦後日本語教育学において、「日本人の思考様式」という考え方がどう変遷してきたかを量的(内容分析)および質的(テキストの批判的読解)によって分析した研究である。著者の博士論文がもとになっている。
「日本語が日本人の思考様式を担う」という考え方が支配的だった時代もあれば、そうでない時代もあったという。また、そうした思想にもとづいて「留学生などに正しく日本語を教えるためには、日本人の思考様式もあわせて身につけさせなければいけない」という考え方が中心になった時代もあったという。自分は英語教育畑の人間で日本語教育にまったく無知なので、この記述はにわかには信じがたい話だが、本当だとしたら、業界内でもっとも権威のある学会誌にどうしてそんな素朴な意見が載ってしまうのかとすこし驚いた。
「日本人の思考様式」論=ナショナリズム?文化本質主義?
本書が実際に分析しているのは、著者の言葉を借りれば「思考様式」言説である。つまり、「日本人には独特の/共通の思考様式がある/非日本人にはそれがない」という考え方だが、これは文化本質主義と呼ばれるものの一種だろう。文化本質主義がナショナリズムの必要条件であるのは、間違いないだろうが、ナショナリズムそのものではないと思う。「日本人には独特の思考様式がある」という意識があるからといって、一般に流通している意味での「ナショナリスト」とは言えない人も多いはずだからだ。
代表的な例としては、いわゆる「出羽の守」*1「西洋かぶれ」と言われる人々である。この手の人々が「ナショナリスト」扱いされるのはよほど特殊な定義を採用した場合以外にないだろうが、彼ら彼女らの多くは「日本人には独特の思考様式がある」とナショナリストに負けず劣らず強固に信じているはずである。だからこそ、「日本人の思考様式は劣っていて、XXX人の思想のほうが優れている」という本質主義的な比較ができるからである。
ただこれは、外国語教育業界と日本語教育業界の差違という気もする。まったくの印象で恐縮だが、日本語教育関係者であれば、職業的アイデンティティの面や知識形成の面から言っても、他の外国語教育関係者に比べて、「出羽の守」にはなりにくいという事情はありそうだ。だからこそ、「文化本質主義」と「ナショナリズム」を直線的に結びつけることに、相応の妥当性がある気はする。この辺りの事情をもう少し知りたいと思った。