こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「良識派」英語教師とナショナリズム、その1(「はじめに」)

書いている途中の論文(非査読)を、コピペするコーナー!

英語教育とナショナリズム

ナショナリズムにとって、教育はきわめて重要である。教育、とりわけ学校教育は、国民国家にとって、児童生徒に国民意識を植えつけるという非常に重要な役割を担う装置だからである。その点からも、ナショナリズムを主題にした教育研究に、膨大な蓄積があることはうなづけるだろう。


こうした状況は、日本の言語教育も例外ではない。特に、国語教育・日本語教育の分野で、ナショナリズム研究の蓄積が進んでいる(たとえば、牲川 2012, ましこ 2002, 安田2006)。もちろん、国語・日本語は、「日本的なるもの」の中核をなす概念のひとつである。したがって、これらを軸にして、ナショナリズムと教育の関係を考察することには大きな意義があり、だからこそ多数の研究者が取り組んでいるのだと考えられる。


一方で、同じ言語教育でも、対照的な分野が、外国語教育である。現在日本において、英語教育学者の数は、国語教育学者・日本語教育学者とおそらく同じかそれ以上だが、それにもかかわらず、英語教育とナショナリズムという主題は、きわめてマイナーなテーマである。もちろんまったく研究がされていないわけではないが、以下で述べるとおり、先行研究の多くは、日本国内の英語教育学者ではなく、「ソト」の研究者によって担われている。当然ながら、関係者でない研究者の視点も、内側の人間にとってきわめて有益なものだが、ソトの研究者の考察は必ずしも英語教育そのものに向かうわけではない(ナショナリズム研究者の場合、英語教育は分析事例のひとつに過ぎないかもしれない。また、国外の応用言語学者の場合、国際比較や理論的視点が強く、日本社会そのものに対する示唆は意図していないかもしれない)。その点で、内側の人間からすれば物足りなさも感じ得るものだろう。こうした現状を踏まえ、あらためて内側の視点から ---筆者も半分程度は「内側」の人間だと自己規定している---、ナショナリズムと英語教育の問題を検討することに意義があるだろう。


しかしながら、研究の空白を埋める、という点だけが本研究の意義ではない。「英語教育とナショナリズム」という主題には、どのような学術的意義があるだろうか。以下の2点が指摘できる。


第1に、この主題は、グローバル化が進む現在、きわめてアクチュアルな問題である。グローバル化は必然的に、ローカルとグローバルの接触あるいは衝突を増加させている。同様に、英語の世界的な拡大によって、ローカルの人・もの・文化・言語は、英語という「グローバルなもの」との対峙を迫られている。ローカルと英語が交差/衝突することにより、ローカル側の反作用として当然ナショナリズムが生じてくることは想定され、実際、そのような報告は数多い。じじつ、「英語教育とナショナリズム」の先行研究の多くが、こうした問題枠組みに基づいていることが、その重要性を物語っている。


第2に、この主題は、「言語教育とナショナリズム」研究に対し、新たな知見を提供できる。具体的には、日本の教育が、英語という外側から来た「異物」(とイメージされるもの)をどのように受容したのか、明らかにすることができる。日本の英語教育は、伝統的に、「日本人」が「日本人」に対し(そして多くの場合日本語で)行われてきた。そうした構造上、たとえ「ソト」の教育内容を取り扱うにせよ、そこにはナショナリズムが存在しないはずはない。しかしながら、「ソト」だからこそ、屈折した形でナショナリズムは発現し得る。これは、外国語を取り扱っている英語教育の文脈でこそ、分析可能な事例である。

文献

牲川波都季, 2012, 『戦後日本語教育学とナショナリズム: 「思考様式言説」に見る包摂と差異化の論理』くろしお出版
ましこひでのり, 2002, 『日本人という自画像: イデオロギーとしての「日本」再考』三元社.
安田敏朗, 2006, 『「国語」の近代史: 帝国日本と国語学者たち』中央公論新社