こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

小学校英語反対論 ---「中学英語必修」擁護とのつじつまの合わせ方

先日のこの記事

で、小学校英語論争の概要を確認したが、興味深いのは、小学校英語「必修化」反対論者が、一見、つじつまの合わないふるまいをしている点である。


というのも、これら反対論は、あくまで公立小学校での英語必修化に向けられたものではあるが、その主張内容には、中学校以降の必修英語すら否定してしまうロジックが含まれているものがあることに気づくだろう。たとえば、「論争」の反対論としてはもっとも有名なものに「必修化をすると子どもの学力・国語力が低下する」という批判があるが、仮にこれが真だとした場合、ではなぜ中学校での英語必修化であれば学力低下・国語力低下が生じないのかという疑問は当然生まれるはずである。また、必修化によって子どもが英語を特別視するようになるという批判(「英語優越主義」と呼ばれている)もかなり流通した反論だったが、これにも同様の疑義が生じるだろう。つまり、中学校からの必修化ならば、子どもは、「言語は平等だ」という適切な認識をはぐくみ、また「日本人」としてのアイデンティティも損なわれなくなるというのか、と*1


そうである以上、小学校英語「必修化」への反対者が、中学校での英語「必修」という現状にすら異議を表明することは理論的に十分あり得るはずである。しかしながら、唐須(2004)や波多野(2005)も指摘していることだが*2、そのような見解が述べられることはほぼ皆無である。したがって、反対論者は、(1)このような論理的矛盾に気づいていないか、(2)気づいているとすれば、小学校は「必修不可」で中学校は「必修可」と言えるだけの何らかの根拠に基づいていることが考えられる。ひとつめの「矛盾に気づいていない」タイプにあてはまる反対論者の数は、「論争」時すでに中学校英語の必修化がほとんど「自明な前提」とされていたという事情を考えると、かなり多いだろうと推測できるが、本研究の問題関心上、こちらを検討することにそれほど意義はない。ここでは、後者のタイプの議論 ---いわば、小学校英語/中学校英語の「線引き」問題--- を検討しよう。


ただし、実際にこの「線引き」を言語化している反対論者は驚くほど少ない。ここではその数少ない例外として、寺島(2005)の主張を見てみよう。寺島は、小学校英語が子どもたちの英語への特別視(彼の言葉をつかえば「英語崇拝」)を招くことを懸念しているが、これは他でもなく「小学校」段階の問題であるという。

大人になって、多様な価値観を持った上で英語を学ぶのであれば、その害悪は比較的小さいもので済む可能性がありますが、小さい頃に刻み込まれた英語崇拝・白人崇拝は、それを癒すのに巨大な年月が必要だからです。(p. 63)

「英語は、よほど心してかからないと学習者を洗脳してしまう強力な力を持っている」ということを述べたつもりです。…もし、このことが事実だとすると、小学校からの英語教育は利点よりも害悪の方が遥かに大きいことになります。学習者が小さければ小さいほど、無意識に「自己植民地化」が進むからです。(pp. 65-6)

つまり、小学生と中学生の間には、「英語崇拝」への精神的耐性という点で、質的な違いがあると主張しているのである。。一方、寺島の主張ほど明確に言語化されているわけではないが、国語力/日本語力低下を懸念する反対論にもこれと同種の「線引き」が暗示されている。以下、少々長くなるが引用する。

小学校教育に英語を全国一律に導入すべきでないと私が考えるのには、もうひとつの理由があります。それは入学してくる段階で、いまの子どもたちの多くが英語教育どころか、そもそも学校教育を受けるに必要な社会訓練をちゃんと受けておらず、人間としての健全な状態になっていないことです。…だから、小学校から英語を初めて国際人に育てるなどと言う下らない妄想を捨てて、何よりもまず立派な日本人をつくることに向かって、人間活動のすべて、いや健全な人間そのものの基礎をつくる言葉、つまり母語である日本語を、せめて小学校で固めることに集中すべきだと思います。
(鈴木 2005、pp. 189-90、強調引用者)

日本人の英語力を向上させようというなら、少なくとも現時点においては、小学校でまず国語力の基礎固めをし、中学校において、その基礎の上に文法や読解を中心とした型や技術を仕込むことがもっとも効果的だと私は考えます。(斎藤 2005、p. 35、強調引用者)


小学校は母語/日本語/国語の基礎を固める時期であるという主張自体は(科学的な根拠の有無はともかくとして)ほとんどの人にとって異論がないものだと思われる。しかし、繰り返しになるが、問題は、この批判は何らかの留保条件をつけなければ中学校教育にも矛先が向いてしまうことである。にもかかわらず、日本語力低下論者が、中学校での英語「必修」を肯定 ---ほどではないにしても黙認--- しているということは、小学校と中学校の間に日本語発達上あるいは国語学習上、何らかの質的な違いを想定しているということになる。つまり、中学生であれば日本語の「基礎」は固まっている(べきな)ので、英語の時間を導入したとしても、認知面でも学習リソースの配分面でも問題が少ないという意味になるはずである。もちろん、このような「線引き」は、現行の「六三制」を前提にする限り、違和感がないかもしれない。しかし、ここで思い出しておきたいのは、1950年代半ばに、加藤周一が中学校英語の義務教育化に反対するために用いたロジックである。加藤は、他でもなく中学校における日本語の基礎学習の徹底を主張し、すべての中学生が英語を学びつつある当時の状況を批判したのである。このように、「中学生になれば日本語学習と英語学習は両立可能」という認識は、歴史的に見るとまったく自明なものではない。


以上のように、「英語への精神的耐性」論であれ「日本語の発達」論であれ、小学生と中学生の間に質的な差異を仮定している以上、波多野(2005: 199)が指摘しているとおり、「発達段階論」の一種である。具体的にいえば、中学生の発達レベルであれば、英語教育必修化によって生じる「副作用」は問題にならないという議論である。ただし、波多野は、上の指摘につづけて、このように小学生・中学生間に間に認知発達上の線を引く議論は、発達心理学などではほとんど支持されていないと指摘している。事実、上記のような「英語崇拝・発達段階論」や「日本語・発達段階論」を主張する反対派は、管見の限り実証的な根拠を一切出していない。このような点で、ほかにもまして科学性に欠ける議論となっており、論理としても苦しいという印象をまぬがれない。


さて、ここまでは、いわば「副作用は生じない」という消極的な中学英語擁護論である。では、積極的な意義としてどのようなものが提示されているのだろうか。この「論争」が興味深いのは、小学校英語必修化への反論が、反照的に、中学校必修化の意味合いを浮彫りにしている部分である。以下、「小学校英語の必修=反対」と「中学英語の必修=賛成」が、どのような正当化を用いて両立しているか確認したい。


まず、小学校英語にきわめて強固な反対姿勢を見せる茂木弘道の主張を確認しよう(茂木 2005)。茂木によれば、義務教育は「すぐ役立つなどということを目的とするものではなく(49)」、基礎的な学習の場であるという。そのうえで、以下のように、「基礎」としての英語教育の必修化を提案している。

英語を実際に必要とする日本人は10%とか20%とかいった率であって、多くの人にとっては必ずしも必要ではありません。しかし、日本は階級制の薄い社会なので、中学段階ではだれがその10%、20%になるのかほとんど予知できません。従って、やはり全員に基礎力しての[ママ]英語を教え、実際に必要性を感じるようになったときに、より高度の英語力をつけられるベースを作っておくべきだと思います。(茂木 2005: pp. 49-50、強調引用者)


ここには、加藤周一平泉渉渡部昇一と同様の認識 ---すなわち「将来的に英語を必要とするひとは少数派である」という認識--- が鮮明にあらわれている。加藤や平泉はこうした現状分析から、英語教育は《国民教育》たりえないと主張したわけだが、茂木は同様の認識から正反対の帰結を導いているのである。ここで重要な役割を果たしているキーワードは「基礎教育」である。つまり、

大前提
すべての基礎教育は、義務教育の構成要素である
小前提
学校英語教育は、基礎教育である
結論
ゆえに、学校英語教育は、義務教育の構成要素である


というように、「基礎教育」という語を軸にして、(暗黙の)三段論法が構成されているのである。しかしながら、ここで注意したいのは、「基礎」の意味である。茂木のいう学校英語教育における「基礎」とは、「国民生活に不可欠な知識」という意味での「基礎」ではなく、義務教育以降の高度な学習にとっての「基礎」である。一般的に、義務教育の正当性の文脈で「基礎教育」という語がつかわれるとき、前者の「基礎」を意味することも多いはずだが、もしそうであれば、以上の三段論法は、ひとつの語がそれぞれ異なる意味で使われており、三段論法としての要件をそもそも満たしてないとすら言えるかもしれない。


論理上の問題点はともかくとして、ここで注目したいのは、学校英語教育が《国民教育》としての正当性が、英語(の「基礎」)の教育それ自体を根拠に、主張されている点である。言い換えれば、渡部昇一のように「知的訓練」のようなロジックを持ち出さずとも、英語力(の基礎)の育成そのものに意義が見出されているということである。そして、この「基礎教育」というロジックは、中学校英語の必修を正当性を強調するのに重宝されたものであるようで、茂木以外にも多くの論者(特に、小学校英語「必修化」慎重派)が用いている。一例を示すと、次のようなものが該当する。

皆に一律の語学教育を行って、ある一定レベルの英語力をすべての生徒に身につけさせようという発想自体に無理があることは、だれの目にも明らかです。…となると、次に考えなければならないことは、英語を使わずに生活していくことになる、多くの児童・生徒に対して英語教育を行う必要があるのかということでしょう。私はこの点について、「英語に触れる」ことで将来、本格的に英語を習得しようと思い立った際に役立つ基盤を作るという点で、学校での英語教育は重要な役割を果たすと考えています。(市川 2006: p. 64、強調引用者)

第一言語の発達にとって有効であるという理由から、第二期[小5から中3までの5年間]で第二言語を必修とし、その基礎学習を義務付ける(山田 2006: p.108、強調引用者)

新学制発足後しばらくの間、「選択教科」であることがむしろ当然視されていた中学校英語科は、2000年代に義務教育を構成する「正当」な一員になるまでに、飛躍的な成長を遂げたことになる。いわば、《国民教育》化の完成である。この段階では、「どれだけの『国民』が英語を必要とするか」という必要性の観点はもはや不問に付され、上級学習の「基礎」をなすという性格が特に重視される。その意味で、中学校英語科は、その存在理由を、「社会」という外部に求める必要がなくなったと言える。英語科内部の自律的な論理で、《国民教育》としての正当化が可能になったのである。


引用元

  • 市川力 (2006). 「英語を『教えない』ことの意味について考える」大津由紀雄編『日本の英語教育に必要なこと』 pp. 53-69. 慶應義塾大学出版会
  • 斎藤兆史 (2005).「小学校英語必修化の議論にひそむ落し穴」大津由紀雄編『小学校での英語教育は必要ない』 pp.19-36. 慶応大学出版会
  • 鈴木孝夫 (2005). 「小学校教育に求められる基本的な知識とは」大津由紀雄編『小学校での英語教育は必要ない』 pp.185-196. 慶応大学出版会
  • 寺島隆吉 (2005). 「小学校「英語活動」の何が問題なのか」 大津由紀雄編『小学校での英語教育は必要ない』 pp. 55-74. 慶応大学出版会
  • 唐須教光 (2004). 「Who’s afraid of teaching English to kids?」大津由紀雄編『小学校での英語教育は必要か』pp. 81-111. 慶応大学出版会
  • 波多野誼余夫 (2005).「「必要ない」か「やめたほうがよい」か」大津由紀雄編『小学校での英語教育は必要ない』pp.197-212. 慶応大学出版会
  • 茂木弘道 (2005). 「小学校英語などとたわごとを言っているときか」大津由紀雄編『小学校での英語教育は必要ない』 pp. 37-54. 慶応大学出版会
  • 山田雄一郎 (2006). 「計画的言語教育の時代」大津由紀雄編『日本の英語教育に必要なこと』 pp. 89‐110. 慶応大学出版会

*1:もちろんすべての反対論がこのような問題点をはらむわけではない。この問題は、そのロジックの性格上、前節の分類における「副作用が大きい」型のみに関係するものであり、「効き目がない」型の反論にはこの問題は生じない。また、「副作用が大きい」論でも、「小学校教員の負担が増える」論のような制度上の不備を問題にした批判は、「中学での必修化ならば問題ないのか」という反・反論を呼び込むことはないだろう。

*2:両者は次のように述べている。
唐須「小学校への英語教育の導入を反対している人も、中学校での事実上の英語教育の必修化に関しては反対している人はほとんどいません。(pp. 86-7)」
波多野「外国語運用能力の習得は、一般に望ましい教育目標として受け入れられています。中学校での英語教育に対して、強い反対意見がある、という話も聞きません。にもかかわらず、小学校での英語教育は『廃すべし』…となるのは、なぜでしょう(p. 198)」