こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

続、「科学的英語教育」の誕生

先日の記事で、英語教育には

  1. 「予想外の事実の計量的な実証」 >
  2. 「当然の事実の計量的な実証」 >
  3. 「計量デザインにのりづらい『予想外の事実』の実証」 >
  4. 「計量デザインにのりづらい『当然の事実』の実証」

のような知的ハイアラーキーがあるのではないかと指摘した。ひとによっては「その序列は当然の順序じゃないの?」という反応―つまり、必然的序列―という反応もあるかもしれないので若干の解説を。


わかりやすく図示すると次の通り。

  • 横軸に「量的 vs. 質的」
  • 縦軸に「発見的 vs. 確認的」

というのをとった。ここで「発見的」というのは、探索的という意味ではなくて、上記の「予想外の事実の発見」といった程度の意味。
図の番号は、マックスウェーバーの言うところ*1の「『知るに値する』という意味で重要な」順位を表す。


たしかに、現状の知識システムを前提とする限り「必然的な順序」のようにも見えるが、問題は、2番目と3番目の順序である。


これは図を回転させるとわかりやすい。
ここで垂直に引かれた軸(黒線)は知的ハイアラーキーを示しているとする。この軸に対し、量的の軸のほうがが、より近づいている。つまり、「量的>質的」という序列があったとして、その序列は、「クリエイティブかそうでないか」という軸を凌駕してしまうほど強力であるということである。「科学」「学問」の基準が、創造的かどうかよりも、数量的に客観的に把握できるかを優先されて判断されてきたと見ることができる*2。軸の回転の度合いそれ自身は、恣意的な結果である。このような回転率の結果である、現在の序列に、「必然性」が存在すると考える合理的な根拠は、特に存在しないのだろう。

*1:http://d.hatena.ne.jp/TerasawaT/20091019/1255980079

*2:(なお、私は、優れた質的研究のなかには、高度の客観性を備えているものも多いと考えているし、逆に、量的研究の中にも統計手法の選択や数値解釈がひとりよがりのとても客観的とは言えないものも多いと考えている。