政治理論に詳しい言語政策学者として、政治理論家に対する恨み節が書いてある(僕の読み込みすぎかもしれないが)。
非常に大雑把にまとめると
- 政治哲学・政治理論の研究者は言語問題に全然興味がない
- リベラリズム主流派/リベラル平等主義(orthodox liberalism/liberal egalitarianism)は、個人としての権利を重視するので、言語権のような「グループとしての権利」に対して冷淡
- 「グループとしての権利」としての言語権に理解のある政治哲学者たち(その代表がウィル・キムリッカ)でも、社会言語学や言語政策の個別事例についてぜんぜん注意を向けてくれない。こんなの「学際」じゃない!
という感じ。
著者のMay自身が提唱している "untrammelled public monolingualism" という概念が面白かった(本章で詳述されているわけではないので詳細は不明)。個人を monolingual と理論的に仮定して、その状態から(言語に関する)権利論を組み立てていくのがアングロ=アメリカ的な政治理論らしい。それに対峙するのが、ヨーロッパ的なマルチリンガル的政治理論だという。ここでは、"linguistic cosmopolitanism" が重視される。すると、コスモポリタン性/グローバル市民性を担保するための国際共通語の重要性が浮かび上がってくる。→グローバル正義のために英語を(必要悪的に?)称揚する Philippe van Parijs の議論がこの系譜。
Outline
1. Introduction
2. Addressing Key Issues
3. Addressing Key Topics
過去ログ
「言語政策リサーチメソッド」の検索結果一覧 - こにしき(言葉、日本社会、教育)
- 作者: Francis M. Hult,David Cassels Johnson
- 出版社/メーカー: Wiley-Blackwell
- 発売日: 2015/07/07
- メディア: ペーパーバック
- この商品を含むブログを見る