こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

《疑似実験室》ではない、《社会空間》としての語学教室 (Pennycook 2000)

Pennycook, A. 2000. The social politics and the cultural politics of language classrooms. In J.K. Hall and W. Eggington (Eds) The sociopolitics of English language teaching (pp. 89-103). Clevedon: Multilingual Matters


本書は教科書も意図しているせいか、各章末に Discussion Questions and Activities がある。これに「あ、そういうことね」とサラっと答えられるのなら、まあ、読む必要はないでしょう。逆に、良い意味であれ悪い意味であれ「なんだってー!?」と思った方は、読んでみると実りが多いかも知れません。


論文を読んでいない人にも、問題文の意味が通るように改変したものは以下(かなり改変していますので注意):

問題1

なぜ「教室」を、「語学」「教授法」との関連だけで見てはいけないのでしょうか?なぜ、社会・文化・政治的コンテクストのなかに適切に位置づける必要があるのでしょうか?

問題2

「自律的な学習者」とはどのような学習者ですか?2つ以上の「学習者」観を、理論的背景を含めて説明して下さい

問題3

「英語教師の仕事に、社会的・文化的な問題へのコミットは含まれない」という意見について、どのような批判があるのかを説明して下さい。

問題4

「良い教師」の構成要素は何でしょうか? TESOLにおいて一般的な回答は、「言語の知識」「教室でのふるまい方の知識」「アクティビティの使用法の知識」などですが、これらはきわめて限定的だという意見があります。上記に付け加えるべきものはなんでしょうか?。理論的背景と併せて説明してください。


   *   *   *   *   *   


このペニクックの論文を非常に大ざっぱにまとめてしまえば、

  • 教室は、社会から切り離された特別な場所ではない。教師や学習者は外の世界(つまり、文化や社会経済構造)を常に教室に持ち込み、教室はそれらの価値・差異が《ぶつかりあう》政治的な空間である

ということである。教育社会学的には、「常識」の部類に属する「教室」観だろう。


同じ著者の Critical Applied Linguistics: A critical introduction を既に読んでいる方なら、あの本全体のメッセージを「教室」に特化させて論じたものと言ってもいいだろう。以下に、目次をあげておく。

1. 教室と「リアルな世界」
2. 社会関係:ミクロとマクロ
3. 文化的再生産、抵抗、そして文化的ポリティクス
4. 英語教育の文化的ポリティクス
5. 抵抗・変革・社会参加に向けて
6. 結論:現代的課題の核心


細かい点だが(いや、細かくないか?)、3節の文化的再生産に関する理論的な議論があらっぽい。上掲書でもそうだったが、ブルデューの議論が「古典的な再生産論」(《文化》資本を持っている階級が、持っていない階級を支配し、その構造が繰り返される)と同類のものと見なされている。その上で、その見方に対し「閉鎖的で決定論的」(p.95)という批判をくわえ、抵抗・変革を志向すべきとしているが、そもそもブルデューの文化的再生産論は、ペニクックが論ずるような静的な見方はしていないはずだと思う*1