こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

《ディベートをする集団》と《そのネタにされる集団》という非対称性

今週開催される下記のディベート大会の論題は、「日本は,移民政策を大幅に緩和すべきであるか,否か」であるという。テーマとしてはかなりデリケートな問題で、すこしビックリしたのだが、そのウェブサイトの注意書きにまたしても驚いた。

全国高校英語ディベート連盟「論題」における注意

否定側の議論で,たとえば「移民社会では治安が悪化する」などと議論する場合,くれぐれも外国人が犯罪者であるとか,特定の宗教信者がテロリストであるとか,偏見やステレオタイプに基づいた議論や表現がないよう議論をして下さい(これはもちろん肯定側についてもいえます)。


そもそも「移民社会では治安が悪化する」論というのは、外国人は犯罪を起こす「傾向」があるというのを前提としたうえで流通している言説だと思うのだが、このような「偏見」「ステレオタイプ」を排して「治安悪化」の論拠を組み立てていくことはできるのだろうか。それとも、一般的な言説とはべつのロジックを考えよということなんだろうか?たとえば、「外国人労働力のせいで日本人が失業し、日本人失業者が犯罪を起こす」のような。


たとえば、NHK真剣10代しゃべり場」は、土曜の夜の私たちの気分を台無しにした偉大な番組だったが――その点で、「文学」的にも偉大な番組なのだが――、そのなかで「日本の英語教師はここがダメ、こうすると良くなる」などと言われたら、頭に来るだろう。何も知らないくせに、当事者でもないくせに、と。それとおなじことで、「移民政策」というデリケートな問題を、ディベート教育の一環とはいえ、高校生に云々されるというのは、いやな思いをする外国人もいるはずである。


ただ誤解なきように言えば、これは「不快な人がいるから禁止」ということではまったくない。むしろ、「不快感を必然的に与えてしまうだろう」という自覚がありつつ、それでもあえてこのテーマを選んだというならば、教育関係者として尊敬する。。社会問題・政策を議論することは、単なる「頭の体操」だけにはなり得ず、倫理的な問題が必然的について回る。もし「あえて」このテーマを選んだのであれば、後者の点を重視したであろうからだ。


ただ、であればこそ、「自分の信念と異なる立場から発言しなければならないことがある」「判断留保はみとめられない」「きわめて短時間で結論を出さなければいけない(したがって「熟議」ではない)」といったディベートの諸特徴の倫理性が問われなければならないと思う。繰り返すが、社会問題に関する議論は、単なる「頭の体操」ではないのだ。