こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

書評論文が出ました (R. Phillipson 2010 "Linguistic Imperialism")

社会言語学 X(2010)所収
「書評 Robert Phillipson, Linguistic Imperialism Continued.」(pp.167-178) → ciniiリンク


今年初めに刊行されたロバート・フィリプソンの上掲書の書評です。いろいろ思うことがあって書き殴っていたら、途中からはもはや本の紹介から脱線し、理論研究の論文のようなものになってしまいました。


書評論文のメインアイディアのいくつかは、今夏にこの本の読書会をやったときのログをもとにしています。

章立ては以下の通り

1. 本書の概要
1.1. 各章の概要
1.2. 理論面―『言語帝国主義』と対照しながら
2. 理論的問題
2.1. 言語帝国主義論=経験的(エンピリカル)研究
2.2. 実践者の主体性(エージェンシー)をめぐる仮定
2.3. 検証手続きをめぐる問題
3. まとめ


ごく簡単に内容をご紹介すると、フィリプソンは、言語帝国主義論を

(A)経験的(エンピリカル)な研究であり、かつ、
(B)言語的不平等の変革を志向する批判的態度を伴った研究


と規定しているわけですが、寺沢は、両者はジレンマをはらむもので、これらを両立させるにはかなりハードルの高い理論的自覚が要求されるだろうと指摘しています(そして、僭越ながら、フィリプソンはそのハードルを越え切れていないのではないか、と問題提起をしています)。


当初は日本でよく言われる「英語帝国主義論」「英語支配論」の検討も入れたかったのですが、紙幅の都合上割愛しました。最後の「3.まとめ」でちょこっとだけ触れています。その部分(p.177)を抜粋すると...

最後に、日本社会における「英語帝国主義」論に目を向けてみよう。「英語帝国主義」論は、日本国内の英語以外の語学関係者はもちろんのこと、一部の英語教員にとっても、英語母語話者をめぐる権威・権力性を批判している点で、耳に心地よい言説であることは確かである。しかし、その程度でよしとせず、この言説と真摯に向き合い、英語教育・学習をめぐる諸現象を深く理解しようとするならば、本書評で提起した理論的ジレンマに関して自覚的にならざるを得ない。日本社会における「英語帝国主義」論を検討する上でのチェックポイントを以下にあげて、しめくくりとしたい。

  • 日本社会における「英語帝国主義」的諸現象 ---たとえば、人々の英語熱、学校外国語教育における英語への一極集中、英語産業の隆盛--- を、
    • 経験的(エンピリカル)な問題設定として扱うか
    • イデオロギー批判として扱うか
  • 経験的(エンピリカル)な問題とした場合、不平等・不正義の再生産をどれだけ実証できるか
  • イデオロギー批判とした場合、それにどれほどの戦略的な有効性があるか

ここだけ読んで、「なるほどそういうことか」と思われた方にはあまり読んでも実りはないかも知れませんが、ちょっと引っかかる部分などおありのかたは読んで頂ければ幸いです。以上、宣伝、しつれいしました。