こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

Seargent (2009) "The idea of English in Japan", Chap.5-7.

今日は読書会(第3回)でした。要約を作成して下さったみなさん、お疲れ様でした。熱/厚い議論ができて幸せでした。


以下、備忘録としてのメモです。個人用のメモでかなりざっくり書いているため、ところどころ、サージェントの主張なのか僕の主張なのか、はたまた他のメンバーの意見なのかよくわからないところがあると思います。まだ自他が未分化な年頃なので大目に見て下さい。

"Conceptual case study" というアプローチ

教育学や教育心理学がよくやるように、ある特定の concept をあらかじめ定義しない。むしろ、教育社会学や教育哲学(概念分析)に見られる、まずはその concept を宙づりにしておいて、その concept が成立する文脈を記述するといったアプローチという感じだろうか。

ただ、正直なところ、この"Conceptual case study"という用語法にはずっと違和感があった(今もある)。「英語/英語教育の知識社会学」でよいのではないだろうか。ただし、知識社会学であるならば、教科書的には、分析に用いた文献・コーパスを明らかにしたうえで、対象となる言説空間(テキスト空間)を明示的に設定すべきであるとされる(いや、したほうがベター、くらいだろうか)。文献として英語資料のみを使っている本研究においては、かなり大きな負荷だろうか。

中立的、transparent なメディアとしての英語

「日本文化を英語で説明する」(発信型英語)という考え方は、「英語=道具/手段」という図式でなければ成立しない。

Not Only Authenticity of English(es) But Authenticity of English Education

著者が、「真の英語はなにか」という言説に注目してしまうのもわからないわけではないが、「真の英語教育とはなにか」という言説に関しても、分析を展開して欲しかった。こっちのほうが日本研究をやる上で面白いと思うけれどどうだろう?


というのも、古くからある教養主義/非・教養主義/反・教養主義をめぐる論争などは、厳密に言えば「英語教育の目標/目的は何か」を議論しているというより、「真の英語教育」という旗の取り合いを行っている議論も見られるからだ(個人的な印象では、むしろ、そっちのほうが多い)。たとえば、「××のような実践は『教育』ではない」といった主張。


この辺の議論は、広田照幸著『教育言説の歴史社会学』に詳しい。英語教育そのものは対象にしていないが、「教育的である/でない」という言説の成立過程を鮮やかに描き出している。

Authenticity vs. so-called "authenticity"

「真正性」は、特定の事象が「真実/本物」であると解釈者に認識されたもの、つまりメタレベルの表象だが、さらにこれをメタ化して、「真正性=真実だとされている約束事」だという次元の事象も至る所にあると思われる。つまり、解釈者は、authenticity およびその背後の authority を読み取っているだけではなく、"XX = authentic" という社会規範も読み取ったうえで行動を展開しているということである。