こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

Phillipson, R. 2010. "Linguistic Imperialism Continued" (Chapter 0)

Linguistic Imperialism Continued以下は、

    • Chapter 0. Linguistic imperialism ---an introductory encyclopedia entry (pp.1-7.)

の 要約です。本論文自体は、Keith Brown (ed.) 2006 Encyclopedia of Language and Linguistics, Second Edition. からの再録です。
(わりときちんと整形している)PDF版は以下のリンクからどうぞ。


*   *   *


言語帝国主義論は、「第三世界」が、政治的独立を果たしたにもかかわらず、言語的な解放がなされないのかを説明するものである。その理論的枠組みは、「権力」を持った「中心」(Center)の国々が、「権力」を持たない「周縁」(Periphery)の国々を経済的・政治的に、軍事的に、文化的に---そしてもちろん言語的にも---支配するというものである。


言語帝国主義が働くコンテクストは様々であり、多くの研究の蓄積がある---(ポスト)コロニアリズム、人種差別、支配言語の優越性を説くイデオロギー。そして現在においては、グローバリゼーションにおける言語(特に英語)の問題がますます重要となっている。グローバリゼーションは、「中心・周縁」モデルで解釈できる部分も少なくないからである(しばしば、英語の拡散を問題化{\bf しない}論者は、「第三世界」のグローバリゼーションへの傾倒を自発的な選択の結果見なし、したがって、中立的な現象として記述するが、実際のところ、こうした「自発的」選択の背後には多大な権力が介在しているのである)。


それと関連して、市場の力も英語問題を考える上で欠かすことはできない。英語は今や、英語国にとって*1有力な「商品」のひとつとなっており、こうした現況を考えるならば、コロニアリズム/ポストコロニアリズムの枠組みだけで、言語支配を概念化するのは限界があるだろう。また、コミュニケーション能力の教育・商品化において、言語帝国主義の「コミュニケーション的帝国主義」(communicative imperialism)への移行も見て取れる。支配的な「知」(あるいは支配的文化の「知」)が、被支配者に一方的に流れ込む状況である。*2このような、言語/コミュニケーション/知識による新たな支配の形態は、ハート・ネグリによる『帝国』においても論じられているものの、言語帝国主義あるいは言語支配に検討が加えられているわけではない(こうした状況は、社会科学・政治科学の他の分野でも同様である)。しかしながら、言語帝国主義・言語支配は、言語政策を通じて不正・不平等を引き起こす以上、他の分野 ---たとえば、政策、科学、国際関係、教育、文化、メディアを対象にした研究領域--- と適切に関連づけて取り上げられるべき問題である。

\end{document}

*1:ただし、日本社会を検討するならば、この限定には留保がつくだろう。日本における英語という商品は、受け手も送り手も媒介者も「日本人」だけで完結されている場合が少なくないからである

*2:要約者注:ただし、フィリプソンは、このような抽象的な意味での「コミュニケーション」観を念頭に置いているかどうかは微妙なところ。もっと具体的なレベル、つまり会話や会話における作法などを問題にしているようにも読める。