こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

中国英語教育の徹底的な実用主義と儒教精神

Gao, Yihong. 2009. Sociocultural Contexts and English in China: Retaining and Reforming the Cultural Habitus. In J. Lo Bianco et al. (eds.) China and English: Globalisation and the Dilemmas of Identity (pp.56-78). Bistol: Multilingaul Matters.



China and English: Globalisation and the Dilemmas of Identity (Critical Language and Literacy Studies) 本論文は、題名が示すとおり、大陸中国清朝中華民国中華人民共和国)において、英語学習がどのように展開してきたかを社会文化的コンテクストを踏まえながら論じたもの。特に、中国近代化と英語学習に起因するアイデンティティの形成/変容/葛藤に焦点があてられ、その過程がピエール・ブルデューハビトゥス概念を援用しながら説明されている。


 中国の英語事情を知る上でも示唆に富む論文だが、日本の英語をめぐる諸現象―たとえば、「実用主義教養主義」、近代化と英語―と比較し、日本の特徴を浮き彫りにする上でも有益な論文である。蛇足ながら、私は基本的に、ほとんどの場合、後者のスタンスで論文を読んでいる。


 筆者の概説に従うならば、近現代中国における英語学習は、徹底的な実用本位の(utilitarian)考え方に規定されている(少なくとも政策面では実用主義道具主義的な思想が徹頭徹尾体現されている)という。この「英語学習のハビトゥス」の根底には、伝統的な儒教精神の「体/用」二元論があるという(ti/yong, essence/utility)。つまり、核にあるのはあくまで「中国文化」という「体」であり、「西洋」およびその派生物はあくまで「用」として道具的に受容されるに過ぎないという考え方(あるいは、正統化/正当化)である。


こうした二元論的正当化は、あくまで理論の内側で成立している点が重要である。つまり、「英語学習=体」は、理論的には―儒教の教説のなかでは―成立するかもしれないが、実際の社会歴史的コンテクストにおいて、そのようなクリアな線引き(=割り切り)が行われるはずがない。むしろ、西洋の「文化的侵略」("cultural invasion", p.69) や 中国人の「国家的自尊心」("national self-esteem")など、様々な社会心理的要因に反応/逆反応するかたちで変容していく。いわば、英語学習をめぐるアイデンティティ・ポリティクス(という言葉を著者は使っていないが)が展開されているのである。


ここで、日本の英語教育史に詳しい読者ならば、日本との大きな相違点に気づくだろう。それは、中国の語学ハビトゥスの形成において、実用主義道具主義への対抗言説による影響はほとんど見られないことである。日本では、実用主義道具主義と同様に、英語を西洋文化のシンボル、あるいは「国際理解」のシンボル、はたまた「修養」(道徳)として見なすような、いわば「非・実用主義*1的な言説もおおきな影響力を持っていた。こうした様々な言説間の相互作用(ポリティクス)により、日本の英語教育目的論は展開してきたと言えるわけだが、中国との対照によって鮮明になるのは、日本の英語教育目的論は、あくまで、日本という歴史社会的コンテクストに規定されているものに過ぎないということである。つまり、どのような教育的諸価値の「併存」を認めるか否か、言い換えれば、教育目的論の「知識」は、きわめて社会的な構成物であるということである。純粋理論的に導出されるような普遍的な「目的論」論(i.e. メタ目的論)は、あり得ない。中国と日本は、英語教育に関する社会・歴史・政治・経済的な共通点が多いにもかかわらず、「知識」のレベルでそうした相違が生まれるのは大変興味深いと言えるだろう。


*1:これらは「教養主義」とまとめられることも多いかもしれないが、私自身はこれを、きわめて問題の多いラベルだとつねづね思っているので用いない。「教養主義」概念の問題性は、また別の機会に述べたい。