こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

女性の「西洋」への憧れ、「国際人」としてのアイデンティティ

Kelsky, K. Women On The Verge: Japanese Women, Western Dreams (2001, Duke University Press)

Women on the Verge: Japanese Women, Western Dreams (Asia-Pacific) 本書のテーマを一言で言えば、日本社会と女性と国際意識(internationalism)の相互の関係性を明らかにすることである。具体的には、特定の階層*1の日本人女性の西洋に対する態度・意識を "akogare"(憧れ)という分析概念でまとめ、その akogare が、歴史的・文化的・政治経済的な諸要因とどのように相互作用し、そしてどのように変容しているかを、エスノグラフィックな手法を中心に明らかにしたものである。


 私も以前に(特定の階層の)女性の英語志向という現象を取り扱ったことがある*2。ただ、その研究は、一時点の社会調査データを計量的に分析した記述的なものであり、女性の英語志向のメカニズムを明らかにしたものではなかった。その点で、本書から、女性の英語志向の How および Why を問ううえでの重要な示唆を得ることができるだろう。というのも、本書でも、「akogare」と英語学習は密接な関係を持っていることが示されているからである。

構成

 まず、簡単に本書の構成を紹介しておきたい。 序章で問題設定が確認された後、 Chapter 1. The Promised Land: A Genealogy of Female Internationalism において、現代の日本女性の国際意識の歴史的な文脈を明確にするために、明治期から終戦後までの特徴的な現象をとりあげ詳述される。取り上げられているテーマは多岐にわたるが、特に、明治期の「女性の教育」の象徴である津田梅子、および戦後占領期における占領軍(主に米軍)と日本女性の関係について、詳細な分析が加えられている。

 続く Chapter 2. Internationalism as Resistance より、視点は現代に移り、日本女性の国際意識の様態が、文献データ(エッセイや雑誌など)およびインタビューデータの分析によって、明らかにされている。ここでの重要な点は、国際意識が、「遅れた日本 対 進んだ西洋(特に英米)」という象徴的な二項対立図式に基づいて概念化されているということである。日本社会の女性差別的な家父長制構造/就業構造から多大な不利益を被っている階層の女性にとっては、上記の「日本 対 西洋」という対立はいっそう強調され、「西洋」を、民主的で男女平等な社会として理想化していくというメカニズムが示されている。

 Chapter 3. Capital and the Fetish of the White Man では、「akogare」諸現象のうち「エロス的憧れ」に焦点が絞られ、検討が加えられている。本章の焦点の第一は、日本女性と白人男性の間のエロス的連関 ――個々の認識のレベルにおいてメディアの表象のレベルにおいても―― だが、その連関図式に連動する、日本男性の相対的な「不能」性や、白人女性の相対的な「非女性」性も同時に検討されている。本章前半では、いわゆる「イエローキャブ」現象が、当事者の豊富なインタビューによって詳述されている。本章後半では、メディア(特にテレビCM)における「白人/日本人」×「男性/女性」という二つの変数の関係を分析し、ジェンダーと人種の相互作用の様態が明らかにされている。

 当然ながら、こうした日本女性の「国際意識」「エロス的憧れ」は、静的なものではまったくない。彼女らの意識、そして「日本女性」をめぐる自己規定は、外的・内的な要因と相互作用しながら絶えず移り変わっていくものである。Chpater 4. (Re)Flexibility in Inflexible Placesでは、こうしたアイデンティティ変容が描出されている。予想されるとおり、多くの女性にとって、当初の理想化された「西洋」は、「現実」とのギャップを経験するにつれ、次第に色褪せて行き、「個人化」されたものに変容していくのである。

注釈

 本書の知見を「日本社会と英語」論に援用する際には注意すべき点を指摘しておきたい。著者の枠組みや結論は、日本の読者、特に英語言説に注目してきた読者にとっては、納得できるものであると思われる(概略としては「旧聞」の類に入ると思われるが、その「詳細」を多様なデータをもとに実証/詳述したという点では、「新規な知見」である)。ただし、この知見が、ある特定の階層の女性に焦点化したうえで得られたものであるという文脈は重要である。
 本書の「国際意識」生成のロジックをごく簡単にまとめれば、日本社会の「後進性」の犠牲者ほど、「進んだ西洋」への志向が強くなるというものだった。逆に言えば、同じ女性であっても、「日本社会」に対するルサンチマンが蓄積していない女性に、こうした図式を適用することは無理がある。Kelsky は本書の至る所で再三強調しているとおり、対象は「女性全体」ではなく、「高学歴×都市居住×若年×就労」という(一般的には社会的上層の)女性に焦点を絞っている。こうした「文脈化」は、国際化意識を考察する上で必然的なものだと言えるだろう。
 したがって、これを、「女性全体の実態」として読み換えてしまうのは大きな問題がある。そうした読み方は、国際意識の根源に「女性」性というものを見いだす、本質主義的な解釈(生物学的な意味でも文化社会的な意味でも)に容易に転化しかねないからである ――それこそが、Kelsky が論駁しようとしていたものではないか。なぜこの点について注釈を付したのかというと、英語をめぐる日本研究であるフィリップ・サージェント著_『日本の英語観』(Seargeant 2009, 原題:The Idea of English in Japan)において、こうした「無意識の」本質主義が ――本書を引用しているにもかかわらず、そしてどちらかといえば構築主義的なスタンスに立ちつつ―― 機能しているように見えるからである(「日本の特殊性を強調する」という日本研究故のスタンスのために、「日本×女性×英語」という現象を一枚岩に捉えさせてしまったのではないかと想像する)。

というわけで

映画「ダーリンは外国人」を見に行ってきます。あくまで研究のためです!井上真央が目当てではありませんよ!研究のためですよ!ほんとですよ!

*1:「高学歴で都会に住み、大部分が独身の20歳から45歳の就労女性で、本格的な留学や海外での就労経験を持つ」階層(p.5)。後述するとおり、この文脈化は非常に重要な意味を持つと思われる。

*2:寺沢拓敬 (2009). 「社会環境・家庭環境が日本人の英語力に与える影響―JGSS-2002・2003の2次分析を通して」大阪商業大学比較地域研究所・東京大学社会科学研究所編 『日本版 General Social Surveys 研究論文集 (8) JGSSで見た日本人の意識と行動』(pp. 107-120)大阪商業大学比較地域研究所