こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

英語教育学と「社会的意義」

ちょっとした実務上の事情で、関東甲信越英語教育学会(通称KATE)の学会誌と、大学英語教育学会のJACET Journalに過去5年の間に掲載された全論文を Introduction だけ 読んだ。Introduction ってのは、 つまり、論文の第1節で、「はじめに」とか「問題の所在」に相当する。


なぜイントロだけかというと、英語教育学の学術論文で「社会的意義」はどう書き込まれているか、という点をチェックしたかったから。(なぜこれをチェックしたかったか、という理由は、いまは内緒。大人の事情。まあ、たいした事情じゃないけど)



以前、JACET Journal の 創刊号(1970年代)から2004年までの全論文を網羅的に読んだときは、もっとこう「社会はこういう研究を必要としてるんだー!」みたいなイントロが多かった気がするんだけど、今回はほとんどなかった。ほとんどの論文で、イントロからいきなり先行研究の紹介・問題点にいく。とくに、研究の意義として、社会的ニーズとの連関を書き込む論文はほとんどなかった。確認できたものは数件しかなかった。


誤解を避けるためにいうと、「自身の研究そのものの意義が書き込まれていない」ということではない。(そんな論文はふつうリジェクトされるだろう)。


そうではなくて、「研究の意義として、『社会の要求』が動員されていない」ということ。日々の英語指導を「所与の前提」としている英語教師が読んだら、多くは納得する「意義の書き方」だろうとは思う。


これを逆に言えば、英語教師(志望者)ではないが英語教育に興味がある一般の人が読んだ場合、意義が伝わらない場合も多いだろうなあ、と。もちろん、想定読者をそういう風に設定しているんだろうなあということを指摘してるだけなので、それだけで悪いとは言ってません、念のため。


ただ、(一般の)教育学の学術論文で、第一文目から「何々論の何々の先行研究ではこうだが、私の論文は・・・」と、いきなり内輪の事情から入るイントロってのもそんなに支配的じゃないと思う。「お約束」に過ぎないとはいえ、いちおう、「社会」との接点を書き込むのが教育学の「作法」だと思っている。じじつ、「教育」を対象としているので、それがやりやすい分野である。