こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

『エビデンスに基づいた教育政策』、第2章ログ

以下の本の一人読書会(二周目)をしたときのログ。FBのノートに限定公開していたが、オープンなところに載せるのもある種の社会貢献かと思ってこちらに転載することにした。とりあえず2章を転載。3章以降はまた後日。

Evidence-Based Education Policy: What Evidence? What Basis? Whose Policy? (Journal of Philosophy of Education)

Evidence-Based Education Policy: What Evidence? What Basis? Whose Policy? (Journal of Philosophy of Education)

この本は、主にイギリスの教育哲学者らによる本なので、最近何かと話題の教育経済学者によるエビデンスベースト論に比べてかなり抑制が効いている――エビデンスベーストがほとんど浸透していない日本の政策的文脈に、エビデンスが既に普及しているイギリスの議論をそのまま適用するのは、「抑制しすぎ」な気もしないでもないが・・・。

後述する結論部分の次の1節が本章の立場を端的に示している。

「残念な教育研究」は、方法論的な間違いだけから生まれるわけではない。教育現象をめぐる哲学的な問題を満足に理解できていないことにも起因するのである。(抄訳)

Chapter 2.
The Importance of Being Thorough: On Systematic Accumulations of ‘What Works’ in Education Research
ALIS OANCEA and RICHARD PRING

1. Criticisms of educational research and the ascension of the 'what works' discourse

・最近の教育リサーチの動向は、特に明確なねらいがあったわけではないが、医学・看護学・教育学におけるエビデンス・ベースト・アプローチから影響を受けている。その代表格としては、コックラン共同計画(医療領域)やキャンベル共同計画(社会科学)。

・リサーチと教育政策の接近は、1990年代以降、英米でそれぞれ独自のかたちで発展してきている。

  • 英国: Education Evidence for Policy and Practice Information and Coordinating Center (EPPIセンター)
  • 米国: No Child Left Behind 法 → (ただし、全米研究評議会(NRC)の「科学的教育リサーチ」に関する報告書は大きな論争を巻き起こした:"Educational Researcher" 31.8, 2002; "Educational Theory" 55.3, 2005) → What Works Clearinghouse (WWC情報センター)

・英国のEPPIセンターも米国のWWC情報センターも、「医療における科学的知識」のモデル、そして、コックラン共同計画・キャンベル共同計画に影響を受けている。
・ただし、米国のものは効果のあるプログラムを科学的リサーチを重視しているのに対し、英国のものはリサーチの統合、質の保障、エビデンスの重み付けを重視。

米英の共通点
  1. 科学のもつ通約可能性を重視した知識観
  2. a hieararchy of modes of knowledge and research design
  3. 科学的実在論(knowledge of the world as given)と道具主義の合成台
  4. 動的な知識観。内在的な論理ではなく、外在的な目的によって知識は生み出される
  5. 明示的な基準・体系性をもった緻密な研究の重視

・レビューというのは、ダイナミックでクリティカルで建設的なものであるべきで、現実をそこから抽出しようと考えるべきではない。

2. Accounts of knowledge and the limits of 'What Works'

What Works アプローチの特徴(長所も短所も)

・「知識は人間や社会と独立して存在する」という見方を取っておらず、むしろ目的的な知識観を前提にしている。
・「介入としての教育実践・教育政策」という見方を取っており、教育実践の倫理的・社会的性質への考慮が薄く、また、実践が新たな知識を創造することを過小評価している。→What Works 言説の問題点を克服するオルタナティブとして、「リサーチ=有効な実践のヒントを提供しうるもの」という仮説生成的リサーチ観が提案されている。

・What Works アプローチでは、学問の「内輪」で秀でていることより、公的に評価されていることがより重視される。
・「教育的価値」が軽視される傾向。
・What Works アプローチは、リサーチの「役立たなさ」に対する有効な回答になりえるし、また、ある種の質の低いリサーチを駆逐するのに役立つが、その一方で、教育リサーチの原理と相容れないような「狭い科学観」を促進することにもつながっている。

3. Research and evidence

政策研究において次の4つ点は必ずしも明確なコンセンサスがなく、したがって、認識論的な議論が必要である。

1. エビデンス概念は決してクリアではない。
→政策に資する「エビデンス/根拠」とは一般的に客観的に観察可能なデータとされるが、実は、次のような「根拠」がなぜ根拠足り得ないのか、明確な理由はない。他分野で重視されるものは、法学では「前例・判例」、歴史学では「文書」、哲学では「批判的検討に耐えぬいた命題」、ナラティブ研究では「個人的な説明」がある。結局、政策研究の分野ではなぜデータがエビデンスとして重要視されるかは哲学的な検討を経なければならない。
2. エビデンス以前に「どのような問いが良い問いなのか」も必ずしもクリアではない。
3. 特定の問題について価値判断が共有されていることは稀である。
4. そもそも社会現象の説明方法には大きな多様性がある。解釈者の立場や価値観によって様々な説明方法があるため、社会の見方は一意に定まらない。

エビデンス」概念

エビデンスは、証明(proof)とは別物である。エビデンスには何らかの不確かさを含み、したがって、その確からしさには強弱がある。こうである以上、相反するエビデンスが得られた場合、両者は何らかの重み付け・熟考を経た上で比較評価する必要がある。
エビデンスの不確実性を前提にすれば、実践や政策がエビデンスに応じて頻繁に変化することも自然なことであり、むしろそうあるべきもの。
・しかしながら、こうした不確実性は、政策決定者から必ずしも好意的に受け取られない。学問の不確実性に忠実な研究者は、しばしば政策サイド側から「意見がはっきりしない人」のような不信の目で見られる。その結果、政策の暗黙の前提にしたがって、エビデンスが取捨選択されてしまうこともある。
・よって、リサーチから完璧な政策的基礎を得ることは論理的に不可能だ。しかし、妥当な政策を行う上での知見を得ることは可能であり、それがリサーチの役目。

問いの意味と論証プロセス

・問いには大雑把に言って「論理的(数理的)な問い」と「エンピリカルな問い」の2種類があって、教育研究における問いはほとんどが後者。
・教育研究者にはさらに次のような対立がある→「教育研究は科学だよ」派 vs. 「科学重視は偏狭な教育観だよ」派

価値判断

・リサーチは真空で可能ではない。現実を把握するための特定の意味体系のなかで可能なものであり、したがって、リサーチから得られる結論は相対的なものである。
・たとえば、「教育」という言葉も、価値判断を大いに含む言葉であり、けっして中立的・客観的なことばではない。→教育目的をめぐる議論は本質的に、事実に関するものではなく、モラルに関するものである。
・世界を客観的に記述する方法も単一ではない。特定の記述方法が支配的なのは、特定の知識が「価値ある知識」とみなされるという権力作用の結果にすぎない。→結局、どの記述方法をとるかというのも、事実をめぐる問いではなく、哲学の問いである。
・社会のメンバーは、特定のルールに従って行動を変えるので、リサーチの結果に基づいて介入を行っても因果的な効果が得られないことも多い。→教育リサーチの結果を一般化するときに本質的についてまわる問題。

説明の多様性、因果的説明

・教育現象をめぐる認識論は多様なので、「一般化可能な説明」も多様
・したがって、教育エビデンスに不可欠な「因果的な説明」には、多くの不完全さを伴う。もちろん、それを認識したとしても、大規模統計調査を無価値と切って捨てるようなこともすべきではない。

人々の行動の説明

たとえ同じ「なぜ?」をめぐる問いでも、外在的原因に関する問い(「なぜ彼らはインフルエンザにかかったのか?」)と、動機に関する問い(「なぜ彼らはドロップアウトをしたのか?」)は異なる。介入対象(たとえば、ドロップアウトをする生徒)の動機を無視したリサーチエビデンスにもとづいて介入を行っても失敗する可能性は高いだろう。


4. Democratization of research and political framework

・教育研究で得られる知識は本質的に暫定的なものなのである。
・ここで必要なのは「知識の民主化」である→「科学的知識」の暫定性を認識し、批判に対しオープンな態度を堅持する
・上記を考慮した民主的な熟議のなかでしか妥当な政策意思決定は生まれてこない。

Conclusion

・「残念な教育研究」は、方法論的な間違いだけから生まれるわけではなく、教育現象をめぐる哲学的な問題への理解不足にも起因している。

Quote:

The chapter argues that little evidence can be conclusive in the development of policy and practice. We have to live with uncertainty, and act upon the best evidence available, always open to criticism, revision and further refinement in the light of further evidence-a democratisation, therefore, of the decision making processes at every level of policy-making.