こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

どれだけエビデンス概念を英語教育に適用できるか/できないか(その3)

以下の記事のつづきです。


医療と教育の共通点・相違点

ここまでは、言ってみれば医療(EBM)内部での議論である。 以下より、英語教育との接点に論点を移したい。

「医療と教育は違う」

教育は医療のメタファーで頻繁に語られるが、同時に「教育は医療と違う」というフレーズも人口に膾炙している。 EBM/EBEの文脈で言えば、たとえば次のような相違点が指摘されてきた。

  • 医療と違い、教育においてランダム化比較試験(RCT)は倫理的に不可能である
  • たとえ倫理面がクリアされたとしても、RCTは現実的にも難しい
  • 医療の目標はわかりやすい(例、治癒や生存)。一方、教育の目標は多様である
  • 医療のアウトカムは数値化しやすいが、教育のアウトカムは質的に検討するべきものも多い
  • 教育は、多数の変数が介在する複雑なプロセスである
  • 教育は、介入の効果が判明するのに長い時間がかかる

上記の特徴づけは、的を射ていないものもあるが1、 たしかに厳密なRCTが困難である点はそのとおりである(完全なランダム割当には二重盲検法が必要だが、教育において二重盲検法が実現できる状況はほぼ皆無である)。 また、教育行為の多くは中長期的なスパンでアウトカムを考える必要があるのも事実だろう。

処遇やアウトカムの定義・測定

もうひとつ、あまり指摘されない重要な違いを付け加えたい。 それは、処遇の定義およびアウトカムの定義・測定に関するものである。 教育は、医療に比べ、この面の合意がきわめて難しいのである。

医療の場合、どのような処遇を標準的とするか(たとえば、投薬の量や間隔、手続き)について基礎科学(基礎医学、生理学、薬学等)による膨大なサポートがある。 アウトカムの定義・測定方法(例、特定の指標が何単位あがったら改善と見るか)も同様である。 もっとも、何を「処遇」「アウトカム」と見なすかは究極的には価値判断に依存するものであり、科学の力で自動的に決まるわけではない。 そうではなく、科学に基づいているという事実が、医療コミュニティ内の合意可能性を高めるのである。

一方、教育では、処遇・アウトカムの定義・測定に関して、基礎科学による根拠づけを得にくい。 指導を例にすれば、「指導法Xとは、○○を××というように教えること」と概念的に定義することは可能だが、反面、科学的指標に依存した形で指導法を定義することは難しい。 アウトカムの測定についても、心理測定による基礎づけがある少数の学力指標を除けば、多くの人が納得できる測定法は少ないだろう。

結局のところ、定義には、常識・レトリック・論争中の科学といった説得力の弱い根拠に基づくことになる。 そのため、教育関係者が容易に合意に至れるような基盤は期待できないのである。

以上の議論を、図NNNに模式的に示した。

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EBMとの違い

EBMのように、教育が科学化できる――正確に言えば、科学による正当化することで合意可能性が向上できる――領域は、処遇とアウトカムの間の因果推論の部分だけであることを示している。 一方、それ以外の部分は、討議を通した合意形成によるしかない。 これが、教育(を含む社会政策領域)において、エビデンス選択は本質的にネゴシーエションであると評されるゆえんである (Parkhurst, 2016)。

社会政策領域での合意形成は、高度に政治的な過程であり (ナトリ-, M. ほか, 2015)、真摯な学術的議論を積み重ねていけば自動的に実現できるわけではない。 しかし、だからこそ、学術コミュニティは、研究知見をアピールすることで政策過程に積極的に関わっていかなければならない。

教育の政策過程においても、処遇やアウトカムに関して荒唐無稽な定義が(主に非専門家から)飛び出すことがある。 たとえば、早寝早起き朝ごはん、大学英語入試の民間試験による代替、「生きる力」、グローバル人材としての資質等々。

こうした奇抜な定義を、無難かつ有益無害で合意可能なものに、修正・最適化していくには、その分野固有の知識、つまりドメイン知識が不可欠である。 ドメイン知識に基づいて議論するからこそ、クリアな線が引けなくとも、多くの人が合意可能な妥協点が探れるのである。 そして、その段階でやっと「エビデンスベースト○○」の枠組みを導入できるスタートラインに至る。 英語教育研究者は、「処遇→アウトカムの」因果推論に関する見識だけでなく、いやそれ以上に、定義・測定のドメイン知識にかかわる文脈で貢献していかなくてはならないだろう2

エビデンスベースト英語教育における残余領域

ここまで、EBPP/EBEの枠組みは、英語教育研究との相性が比較的良い(あくまで他の教育分野と比べて「比較的」だが)という前提で議論してきた。 一方、そうではない文脈もある。質的研究である。

事実、EBM/EBPP/EBEは明らかに量的研究を前提にしている(エビデンス階層がその典型である)。 では、質的研究との接点はどこにあるのだろうか。 以下、本章の締めくくりとして、英語教育研究における質的研究が、EBEといかに接続(不)可能か論じたい。

質的研究

前述の通り、英語教育研究は伝統的に量的研究が支配的な分野である。 一方、質的研究は長らく非主流派の位置に甘んじてきたが(寺沢, 2019くろしお)、近年は着実に存在感が増している。 それにしたがって、英語教育でも、量的研究・質的研究双方の位置づけをめぐる議論が深まりつつある。 同様に、EBEと質的研究の関係がどうあるべきかも議論を深めていく必要があるだろう3

私見としては、質的研究がEBEにとり得る態度として次の3つがあると考える。

  1. ドメイン知識に貢献」型: エビデンスのコアにある因果効果とは、すぐれて量的研究的な概念である。「○○指導法の効果」のような問いは質的研究の守備範囲ではない。一方で、処遇やアウトカムの定義をめぐる議論など、ドメイン知識にかかわる領域については、質的研究は大いに貢献できるだろう。
  2. 事例研究型: 因果効果は質的研究も検討可能である。その代表例が、事例研究である。教育現象では「効果」が生じる複雑な文脈を総合的に検討する必要がある。そう考えれば、要素還元主義的な「実験」などよりも、事例研究の貢献度の方がむしろ大きい。エビデンス階層のような格付けシステムも、こうした観点を反映するように根本的に修正すべきである。
  3. 相対化機能重視型: 質的研究は、量的研究のように、教育現象を静的に捉えない。常に流動的かつ複数的で複雑なプロセスとして見る。そもそも、現象の記述(たとえば「○○は××を向上させた」)は観察者に依存するわけで、固定的に確定できるものではない。であれば、社会に蔓延する「エビデンスに基づく効果的な○○」といった過度に単純化された言説に対し、批判・相対化するような対抗言説を編んでいくことこそが質的研究の役目である。

上記の説明にも示されているが、3つのアプローチは、認識論的前提に大きな違いがある。 つまり、「因果効果」という概念をどう理解するか、そして、経験主義 (empiricism) を前提にするかしないかという点で明確に見解の相違がある。 その点を整理したのが、表NNNである。


因果効果に対する態度 経験主義 (empiricism) に対する態度
1. 「ドメイン知識に貢献」型 限定的に理解 経験的
2. 事例研究型 緩やかに理解 経験的
3. 相対化機能重視型 因果効果という概念自体に批判的 解釈的 ・批判的 (critical)

表NNN 各アプローチの特徴


これらのアプローチのうち、どれが最も現実的かを議論するのは筆者の力量を越えている。 ただ、たまたま「質的研究」という総称的ラベルがついているが、そもそも根本的に別種のアプローチであり、優劣をつける議論はあまり生産的ではないように思われる。 それぞれの立場に立つ英語教育研究者が相互に対話していくべき論点であろう。


おわりに

本章では、EBPPの英語教育研究の適用可能性を、因果効果、エビデンス階層、医療との相違といった観点から検討してきた。 結論として言えることは、英語教育研究者の多くが関心を持っているテーマはEBPPとの枠組みと比較的親和的であるが、反面、教育における因果効果の検討には固有の困難さがあり、医療(EBM)並みに標準化された枠組みを「輸入」することはほとんど期待できない。

直輸入できる事例がないという事実は、英語教育研究が自ら枠組みを構築する必要があることを意味している。 その際は、総論だけでなく各論レベルで根本的な再検討が必要になるだろう。 たとえば、エビデンス階層は、現在、モデルとして流通しているもの――RCTのシステマティックレビューが最上位に来るもの――で本当に良いのか等である。 この点に関連する方法論的な検討は、NNN章で行う。

文献

略(すみません)


  1. 的を射ていないと考えられる部分は次の点である。第1に、倫理的にRCTをクリアする方法は多数研究されている(そもそも、EBMが患者をモルモットにできるわけもなく、倫理的な手続きを踏んでいる)。第2に、医療にもRCT実施が困難な現象もあり(例、疫学的対象)、RCTが困難なことが、即、EBPPの困難さを意味するわけではない。第3に、医療が目指すものも、究極的な目標という点でいえば多様性に富む(たとえば、患者のQOLや権利、あるいは家族を含めた幸福)。教育についても、「治癒・生存」並みにわかりやすい指標は(その合意可能性はともかく)想定可能である(たとえば、学力テストの点数)。第4に、人体の「小宇宙」という言葉があるように、医療行為にも多数の変数が介在する。むしろ、その多数の変数の介在をランダム化によって統制しようとする試みこそがRCTである。

  2. そもそも因果推論に関する実験デザイン・統計手法において、英語教育研究者は、データサイエンティストや経済学者にはかなわない。そうである以上、英語教育研究者の存在意義は、ドメイン知識が活かされる文脈にこそあると筆者は考える。

  3. 医療(EBM)にはすでに多くの蓄積があり、ナラティブのような質的データを統合する試みも提案されているが(ポープほか, 2009; シャロンほか, 2011)、現在でも標準的な位置を占めているとは言いがたい。