こちらの記事は、拙編著『 英語教育のエビデンス: これからの英語教育研究のために 』を執筆していたときの下書きです。(2022年10月20日追記)
本章では、英語教育研究が、いかにして「エビデンスに基づく実践・政策」(evidence-based policy and practice, 以下EBPP)と接続(不)可能かどうかを論じる。
運動としてのEBPP
EBPPの源流は1990年代の「エビデンスに基づく医療」(EBM)である。 医療従事者の経験則や勘ではなく、実証的根拠にもとづいて科学的に医療行為を選択すべきであるというのがEBMの根本思想である。 この考え方は、その後、医療の枠を超え社会政策の様々な分野に浸透した。教育分野(教育実践・教育政策)もそのひとつであり、エビデンスに基づく教育などと呼ばれる(evidence-based education, 以下EBE)。
「エビデンスに基づく○○」はとりわけ医療の分野で成功を収めたが、その主たる要因の一つが、統計学をはじめとした科学的方法論による説得力だろう。 科学による裏付けが、経験則や勘などの属人的要素を排し、意思決定の正当性を担保することに貢献した。
その点でEBPPには明確な科学志向があるが、同時に、EBPPは紛れもなく政治的・社会的運動 (movement) でもある。 つまり、伝統的な属人的意思決定は非効率的であり、それを科学的なものに変革することでよりよい成果がもたらされるという信念のもと、意思決定に関わる制度や実務者の意識の改革を目指すものである。 明確な価値観に駆動されている以上、中立的なものでも非政治的 (apolitical) なものではない――だからこそ、この(しばしば隠蔽された)政治性について批判がなされることもある。
3つの論点
EBM/EBPP/EBEには、すでに膨大な量の論説があるが、力点は文献によって大きく異なる1。 技術的な革新性(ランダム化比較試験や系統的レビューなど――後述)のみに限定して論じるものも多いが、その運動体としての性格――一連の意思決定システムの構築や、さらにこの運動の波及効果といったマクロな議論――を含めるものもある。 こうした議論の多様性が、しばしば「議論がかみ合わない」と評される一因でもある。
EBEのこれまでの議論は、図NNNにある3つの観点で整理するのが有効だと考える。
第1に、「エビデンス」の定義である。 最も狭義 (a-1) が、「処遇→アウトカム」という因果モデルにおける因果効果を示した実証的データであり、かつ、その確からしさ(エビデンスの質)に関して格付けを経たものを意味する。これは、医療(EBM)における標準的な定義である。 それより少し広い定義として、(a-2) 単に「因果効果を示した実証データ」を意味する用法 もあり、さらに広義のものに (a-3) 必ずしも因果効果に限定されない量的データ全般を指す用法もある2。 なお、日常語の「根拠」のように実証性を必ずしも前提にしない用例もあるが(例、「反論するときはエビデンスを述べるべし」)、こちらはEBPPの文脈では誤用と言って差し支えないだろう。
第2に、EBPPの一連のパッケージのうち、どの段階に注目するかである。 具体的には、正木・津谷(2006)の整理における「エビデンスをつくる」「つたえる」「つかう」の各段階に対応する。 「つくる」は、研究者の活動――質のよいエビデンスが得られる研究をどのように組織するか――に関わる。
一方、「つかう」は実務者(例、教師)や政策決定者が、意思決定に際しエビデンスの適切な参照方法である。 多忙な実務者にとって有効なエビデンスを効率的に「掘り出す」方法や、エビデンスを吟味する目(いわばエビデンスリテラシー)がここに含まれる。
そして、両者を橋渡しするのが「つたえる」である。 既存の研究成果の整理・統合や研究データベース(たとえば、実務者が意思決定に困ったときに検索できる、効果的な対処法=エビデンスを収録したデータベース)の整備が該当する。 実際、医療(EBM)では、この種のデータベース構築は進んでおり、すでに大きな貢献を果たしている(正木・津谷, 2006)。
第3が、EBPP運動そのものをとりまく条件である。 一般的に、EBPPに肯定的な論考は、射程を明示的な目標――「研究と実践を有機的につなげることで、意思決定を改善する」――に限定しがちである。 一方、慎重な論考では、こうした「正論」を越えた点にも注目する。 ひとつは、この運動を後押しした社会的・政治経済的条件に関する批判的分析である。 EBPPは「選択と集中」――つまり、「有効なものにリソースを割くべし(有効ではない[ように見える]ものはやめてしまえ)」――の発想と親和的であり、多くの先進国で進展する、教育に対する透明性の要求、国際標準化された学力概念(PISA等)、財政健全化(教育予算制限)などとの相関が指摘されている(石井, 2015) もうひとつは、意図した目的から逸脱した意図せざる影響への警鐘である。 教育行為の実際の文脈を捨象せざるを得ない実証研究(とくに数値ベースの研究)が、少なくともその過度の強調が、教師の自律性・専門性を毀損し得るという懸念は無理もないものと思われる(松下, 2015)。
(つづく)
引用文献
うえでリファーした文献については略(すみません)。
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教育(EBE)は医療(EBM)に比べると新興分野ではあるが、和書(翻訳含む)に限定しても、国立教育政策研究所 (2012)、ブリッジほか (2013)、中室 (2015)、杉田・熊井 (2019)、森 (2019) が詳細な議論を展開している。また、日本教育学会『教育学研究』の第82巻第2号(2015年)や社会調査協会『社会と調査』第21号(2018年)においてもEBEに関する特集が組まれている。↩
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たとえば、内田 (2015) がEBEの文脈で焦点を当てているのが、児童のいじめ・暴力行為に関する統計である。この種のデータは、特定の処遇の因果効果を推定したものではないが、現実に教育政策過程において「エビデンス」として用いられている(たとえば、日本の財務省は以上のデータを根拠に学級規模の縮小撤回を提言した)。教育研究では、このような「権力による恣意的な(数値)データの解釈・統計の濫用」も含めてエビデンスの功罪が論じられている場合も多い。↩