先日のこちらの読書会 での論文メモ。
非常に示唆に富む論文で,考えたいことが山のように湧いてくる素晴らしい論文でした。以下にダラダラと書いていますが,個人的にもっとも響いたのは,「自明なことをなぜわざわざドヤ顔で言うの?」という話です。これは本当に謎。誰かざっくばらんにかつ誠実に論争しあえるひとたちにぜひ深掘りしてほしい。
書誌情報
木村護郎クリストフ (2021)「社会言語学に「言語」は必要か? ポストモダン言語論を問いなおす ? 」『社会言語学』 21号
「自明なことをなぜわざわざドヤ顔で言うの」問題
[ポストモダン言語論による「既存の言語観の乗り越え」の提唱は]社会言語学が遅 くとも1960年代から前提にしてきたことをさも新 しいことかのように再提示するだけで何も新しい知見を提供しない(p. 4)
- これは,個人的にも以前からずっと思ってきたことで,たぶん多くの人は思っているのに,このような「自明なことをドヤ顔で語る」が蔓延しているのは逆に不思議。私は論文を投稿すると,査読者からしょっちゅう「こんなことは前から言われてきた」といってリジェクトを食らうんですが,この業界は新規性はあんまり重要じゃないんですかね。なお,この点にかんする尾辻論文の応答も,「今まで言われてきたこと」をあらためてまとめ直しているだけで,「応答」にはなっていない気が・・・。
ポストモダン言語論の言語政策バージョン
- p.3に関連して情報提供ですが,言語政策の教科書として定評がある(たぶん)ものに,Elana Shohamy の Language Policy: Hidden Agendas and New Approaches. という本があります。この本は,いわばポストモダン言語論の言語政策バージョンという感じです。導入部分で,「言語」を大きく拡張することを明確に宣言しています。たとえば,食べ物とかファッションとか。
ただの「頭の体操」?
- 批判的意見を書くと,「言語をこういうふうにも定義できる」という話と,「言語をこういうふうに定義すると,学術的 or 実務的 or 運動的によいことがある」という話はぜんぜん別で,前者はハードルがかなり低い楽なタスク(単なる「頭の体操」の範疇なので)。でも,簡単なだけに意味は小さめ。本当に意味があるテーマは,後者も踏み込まないといけないと思います。教科書であるにもかかわらず,Shohamyは私が読む限り,言語概念拡張という伏線(=どんなよいことがあるのか)を回収せずに終わってます。
Superdiversity
- p.4 super-diversity. これも情報提供ですが,応用言語学における super-diversity 概念は,Aneta Pavlenkoによってかなり痛烈に批判されています。
- 尾辻論文を読むと,尾辻さんも別に推してはないんですね(正直,この辺の賛成反対が予想できなくて,難しい…)。
- ちょっとバズっただけで,消えていく運命なんでしょうか…。
ストローマン論法?
- p.7. いずれの立場も,均質な言語観ではとらえられない現実があるということを認めている,という共有点の確認は大事。
- しばしば,流動性重視派が(ストローマン的に?)批判する固定的言語観の人って具体的にどのあたり?私が知る限り,ガチガチの実証系の言語学者でも,言語の区切りという理論的架構=作業仮説を真剣に信じちゃってる人はほとんどいないと思いますが・・・。
- (同様の構図は,ストローマン的?に批判される量的研究者/実証主義者,という構図でもしばしば見ます)
戦略的本質主義
- p.12. 戦略的本質主義という論点は重要ですね。単なる「頭の体操」話にならず,実際にどう実践・運動ができるかという点で真剣に論じる意義があると思います。そもそも有名な論点なので,いままでにも結構批判されてきたポイントだと思うんですが,ポストモダン派たいして誰も応答してないように見えるのが残念。