こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

10章 コーパス言語学を言語政策に応用する『言語政策リサーチメソッド・実践ガイド』ログ

10章 Applying Corpus Linguistics to Language Policy. By Shannon Fitzsimmons-Doolan

メソドロジーマニア(メソドロジー警察)の観点からいうとかなり違和感が強い章。

著者曰く、コーパス言語学が言語政策に貢献できる点として次の3点をあげている。(p. 107)

  • (a) 言語の実際の使用を記述する
  • (b) 言語変異のパターンを明らかにする
  • (c) 政治的テクストに埋め込まれたイデオロギーを明らかにする

上記 (a) と (b) は、言語政策・計画の重要な柱であるコーパス計画に深く関係する(辞書の整備、言語テストの作成等)。その点で、コーパス言語学が重要な貢献をすることは間違いなく、そこにはまったく異論がない。

しかしながら、問題は (c) である。

最初読んだ時、ここはひょっとしてリップサービスか何かかなと思ったが、そうではないらしい。著者は大真面目に、イデオロギー分析にコーパス言語学の手法が使えると論じ、実例を示している。

しかし、著者の言う、テキストの定量的分析(一部質的分析)からメッセージをあぶり出す手法は、内容分析 (content analysis) と呼ばれ、戦前からメディア研究や政策研究の分野で長らく行われてきたのである。

もちろん、コーパス言語学”の定義を拡張して、「言語現象だけでなく、メッセージも対象にする」という風に定義づければ、一応、内的一貫性は保たれる。しかし、その場しのぎの安易な定義拡張は大きなデメリットを伴うことを、メソドロジー警察としては言いたい。

第一に、内容分析という既に確立しているメソッドへ敬意を示してないのはなんだかなあ〜という心情的な問題。本論文で示されている研究事例は、内容分析と呼んでもまったく差し支えないものだが、内容分析の分析手法に関する基礎文献はおろか、content analysis という文字列もない。

第ニに、言語形式からメッセージに分析の焦点を移す以上、言語理論よりもむしろ社会理論・政治理論が重要になる。その点について、本論文は何も言っていない。ただし、もし「マルクス主義コーパス言語学」とか「批判理論に基づくコーパス言語学」のような定義を(場当たり的に)採用すれば理論上は解決するが、関係者にどれだけ受け入れられるのだろうか(「受け入れられる!」ということであれば、個人的には問題ないと思う)

なぜ、メッセージの分析で社会理論・政治理論が重要になるかと言えば、もしそれがなければ定量的評価を「常識」で解釈するという愚につながるからだ。

どんなに洗練された統計手法を使おうとも「(言語的)事実」が自ら語りだすわけではない。事実からイデオロギーを抽出するのは、究極的に言えば分析者の主観である。その際、「よりマシな主観」に依拠すべきであり、「常識」はそのなかでももっともダメなものである。以下理由。

それっぽい理由としては、常識の再生産につながるから、下世話な理由としては、常識への依拠はくそつまらない分析になるから、である――たとえば、「歌は世に連れ、世は歌につれ」みたいな分析は、すでによく知られた「常識」を歌の歌詞のなかで再確認しているだけである。それが楽しいか楽しくないかは別として(いや、J-POPファンとしてはとても楽しいが)、学術的には価値がないだろう。

言語政策におけるコーパス計画

著者は、イデオロギー分析に対する思い入れが強いせいか、コーパス計画に関する研究事例についてはあまり論じていない。むしろこちらを知りたかった。

もっともコーパス計画に携わっている言語学者のみんながみんな、政策に携わっているという自覚は必ずしもなさそうな気もするが。