こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

批判的応用言語学と権威主義(あるいはミーハー志向)

批判的応用言語学の「批判的」とは,狭い意味での「批判的思考」(いわゆるクリシン)を意味するものではなく,あらゆるタイプの観念・知・体制に対する根本的な批判です1。(近代を特徴づける学問知,言語観,社会観,文化観,教育観 etc.)

しかし,なんでもかんでも批判的検討に付せるかというとそうでもなく,現実的・実践的に相性の悪いものがあると思います。そのひとつが権威主義批判です。

理論的に,ではなく現実的・実践的に,権威主義批判と相性が悪いというところがポイントです。 というのも,理論的に見れば,批判的応用言語学の批判性は当然ながら,権威主義にも向かうからです。 他方で,以下に述べる事情から,現実的・実践的には,むしろ権威主義と共犯関係になりかねない危うさもある気がします。

権威主義,近代的概念,批判的アプローチ

権威主義批判は,別に,「批判的」を冠する諸アプローチの専売特許ではありません。 むしろ,近代的学問概念――典型的には科学――や,近代的社会概念――民主主義,人権 etc. ――も,権威主義に対するアンチテーゼとして機能している面が大きい。

つまり,批判的応用言語学が,反権威主義を掲げる近代的概念を批判するなかで,いわば「敵の敵は味方」のように,権威主義に近接するという危うさを現実的に内包しかねないわけです。

近年の応用言語学は,科学に対する権威主義はだいぶ中和されてきました。おそらくこれは,批判的応用言語学の功績でしょう。 でも,批判的応用言語学者が,科学に対する批判あるいは相対化作業を基礎づけるために(あるいはもっと露骨に「権威付ける」ために),「西洋の知の巨人」,つまり,ポストモダンポスト構造主義/ポストコロニアリズムの哲学者・理論家などのワンフレーズ引用にしばしば頼るのはたいへん皮肉な状況です2。 しかも,引用が短文であるほど,そして,皮相的であるほど,実際に出典元を読んでいるかどうか怪しく思えてきます。 あるある話として,「コミュニケーションが大事だ」程度のことを言うためだけにハーバーマスを引用したり,「私達の(言語)能力は社会構造に左右される」程度のことを言うためだけにブルデューを引用したり・・・。 ここでよく引用されるラインナップを見ると,西欧白人人文学への権威主義が蔓延していて,とても皮肉です。

科学は,批判的応用言語学が正しく指摘する通り,それ自体が容易に権威性を帯びることは事実です。 しかし,同時に,反権威主義・脱権威主義的な営為として機能することも事実です。 科学者の(ときにナイーブな)行動指針は,「誰が言ったかではなく,何が言われたかを重視せよ」ですし。

「誰の発言か」というミーハー志向を越えられるか

「誰が言ったかが大事」という原理は典型的な権威主義――あるいはもっと悪いパタンはミーハー志向(笑)――ですが,科学とか実証主義とかは,権威主義へのある程度のカウンターとして役立ってきました。 データが大事,事実が大事,という指針は,属人的権威主義を克服する非常にシンプルで訴求力のあるメッセージです。

他方,実証主義への恭順を放棄した批判的応用言語学が,権威主義にどう対峙できるかは実践的・現実的には,実はなかなかややこしい問題でしょう。

もちろん,伝統的には,別のアプローチがきちんと用意されてきています。それは,人ではなく,理論的テクストを重視するというものです。 しかし,批判的応用言語学だとそこもかなり怪しい。 良くも悪くも実践志向・応用志向なので,テクストの読解に拘泥するのもたしかに何か違うかなというのはわからなくもありません3

他方で,その必然的なジレンマとして,インプリケーションが抽象的(つまり脱コンテクスト的)になればなるほど,きわめて凡庸な話しかできないという問題があります。たとえば「言語は動的だ」「権力は遍在している」「知は構築される」「現実は多様性に満たされている」のように凡庸な主張をワンフレーズ引用から導いたりすると,「そんなこと,テクストを読まなくても言えるでしょ?著名人の著作をちょろっと引いてるだけなのは権威主義では?」と疑念を持たれるのは当然でしょう。

もっとも,ワンフレーズ引用にとって,有名な学者はたいへん都合がよいのは事実です。「ハーバーマスの言う通り」「フーコーの言う通り」「ブルデューの言う通り」「サイードの言う通り」で,文脈を作れるので。

ただ,「その主張をしたいなら,(有名著者ではないけど)もっとよい文献があるのに…。批判的言語教育を標榜しているのに,権威主義には批判的にならないんですね…」と残念な気持ちになることもよくあります。


  1. 過去ログ:批判的応用言語学の「批判的」に関する誤解 - こにしき(言葉・日本社会・教育)
  2. ここでポストコロニアリズム理論家は,単なる西洋偏重という点で言えば,微妙な立ち位置です。ただし,批判的応用言語学において,どのポストコロニアリズム理論家がどういう作法で引用されるかを見ると,やはり西洋偏重の枠組みで考えたほうがよいのではないかという状況も頻繁に耳にします。そこで参考になるのが,Leon Moosavi (2020) の「脱コロニアルなバンドワゴン,および知的脱コロニアル化の危うさ」という論文です。Moosavi は,同論文のなかで,脱コロニアルがスローガン化しつつあって景気がいいけど,結局引用されるのはサイードとファノンのような西洋で受けがいい理論化ばかりで,それ以外の「南の」理論家はほぼ無視じゃん!的な皮肉を言ってます。https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/03906701.2020.1776919
  3. 例外的に,一部の批判的なアプローチの応用言語学者は,テクスト読解にかなりウェイトを置いた著作を出しています。たとえば,David Block (2018) Political Economy and Sociolinguistics や John O'Regan (2021) Global English and Political Economy. これら2つの本はいずれも,ページのかなりの部分(とくに書籍前半部分)が理論的テクストの読解作業にあてられており,言語の話がぜんぜん出てこなくて読んでいて不安になります(笑)。