こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

デイヴィッド・ブロックほか著、『ネオリベラリズムと応用言語学』

読了。

Neoliberalism and Applied Linguistics

Neoliberalism and Applied Linguistics

この本、批判がけっこう辛辣で面白い。

ネオリベ者が批判されるのは当然としても、自称マルクス主義者・自称ポストモダニストも批判されている。
どちらかといえば自陣営にいると考えられる学者ですら「政治経済理論に関する理解が浅い」的な感じで批判されている
「私はそうは思わない」的な書き方のほうがまだカドはたたないと思うだけに、人間関係的に大丈夫なんだろうかと少しだけ心配になった。

ネオリベラリズムを分析する意義

応用言語学ネオリベラリズムの組み合わせは ――日本の応用言語学に馴染みが深い限り―― かなり奇妙な取り合わせに感じるはず。(一昔前の、および、現代日本の)応用言語学は、政治経済的要因を分析対象から締め出してきたからだ。(なお、アメリカ応用言語学会では政治経済的分析も少し前からきちんと市民権を得ているが、その波はまだ日本の応用言語学会には到達していないようだ。日本の応用言語学は他の学問に比べても北米志向が強いが、それはあくまで「選択的北米志向」であることを物語っている)。


応用言語学者は「俺らは学際研究者だぜえ!」としばしば声高に叫び、実際、そういう面はあるのだが、あらゆる学問と偏りなく学際的協同が行われているかといえばそんなことはない。政治経済現象の「学際的」応用言語学なんてものはほとんど行われておらず、応用言語学者が政治経済要因に口を出すとしばしば深刻な不見識を露呈する(「地球語としての英語」論などがその典型である)。


政治経済的分析の不在は、2000年代後半の経済危機――そしてその背景である新自由主義――に関しても同様である。英語のグローバル拡大、高等教育の英語化、そして社会現象を経済の言葉で語るディスコースの浸透は、ネオリベラリズムから派生したものであるにもかかわらず。


また、ネオリベラリズムグローバリズムは密接に関連している。したがって、英語の世界的拡大もネオリベラリズムと無縁でないことは自明。いわゆる「ワシントン・コンセンサス」の一環として、国際通貨基金世界銀行は財政危機に陥った国の財政健全化のために英語の普及を要求したことは有名。

ネオリベラリズムの強力な所(ほめてない)


ヒューマンな批判者はしばしば「ネオリベラリズムは人間的ではない!もっとヒューマンな社会にしよう!」などとヒューマニスティックにあふれた批判を展開する。もちろんそれも重要だが、もっと批判すべき点が、ネオリベラリズムにはある。


それは、ネオリベラリズムは、理論を見ても現実のデータを見ても多くの矛盾を含んでいるという点である。


たとえば、ネオリベ者は「自由な市場万歳!国家の介入はよくないよ!民間の切磋琢磨が成長の鍵!」なんてことを言う。しかし、自由な市場を作るための規制緩和と称して、国家は今までものすごい規模の介入を行ってきた。


また、情報技術の進展がコミュニケーションをより自由にし、社会をより豊かで平等的なものにするというのも事実とまったく適合していない。技術的進展により「監視的・管理的コミュニケーション」がより容易になった現代社会を見ればその矛盾は容易にわかる。もっとも、このような楽観的社会観こそネオリベラリズムイデオロギー的強力さ(ほめてない)なのだが。


しかし、ネオリベラリズムの凄い(ほめてない)ところは、矛盾が生じているにもかかわらずそれをうまく偽装する、場合によっては、矛盾に見えないように自己最適化するところである。その証拠に、2000年代後半の経済危機でネオリベラリズムの綻びは決定的になったはずなのに、まだ根強く生きながらえている。


巧みな(ほめてない)偽装方法に、言説やキーワードの意味をうまく変容させるというものがある。たとえば「規制緩和」「人的資本」「企業」等々。


上記をはじめとしたネオリベラリズムの言葉は、景気が良い時には「当たり前のこと」に聞こえるので、簡単に社会を「植民地化」することができる。

一方、経済危機を経験した後の私達は、耳に心地よいネオリベラリズムの言葉群が虚偽だったことを痛感した・・・・・・・ことになるはずだったが、実際はそんなことはなかった。ネオリベラリズムは、そのキーワードの意味を巧みに変容させ、経済危機への「再適応」を成し遂げたからである。経済危機によって矛盾を露呈したはずのネオリベラリズムは、まだ根強く生き残っている。