こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

小学校英語の事例報告から質の良いエビデンスを得るにはどうすればよいか

先日、関東甲信越英語教育学会で「英語教育学における科学的エビデンスとは? ―小学校英語教育政策を事例として―」と題する口頭発表を行った。



この発表の際にフロアから「小学校英語の既存の事例報告は研究デザインの質が低いためにエビデンスの質も低いというが、では、どのようにしたら良いエビデンスを得ることができるのか?」という質問を頂いた。

これはもっともな問いである。当日は「どのようにしたら良いエビデンスを得られるのか」という点も説明したのだが、ほぼ完全に量的調査の手法を前提にしていた。そのため、事例報告についてきちんと議論できなかった。

質疑のときには色々気を使ってけっこう回りくどい答え方をしてしまったので少し反省。誤解が生まれないようにあえてストレートに表現すれば、次のような回答になると思う。

まず、大前提としてサポート役として小学校教育現場に入った研究者が行った事例報告は「サポート報告」であって政策的エビデンスとしての信頼性は低い。中立的ではないからだ。

したがって、政策的エビデンスを得るためには、「効果検証者としての研究者」が必要だと思う。もちろん「サポート役としての研究者」も必要なことは間違いないので、それとは別に研究者が効果検証にあたるべき、ということである。原則として、サポート役と効果検証者を同一人物が兼ねるべきではない(後述)。
 

背景説明

以下、上記だけでは若干説明不足なので背景を説明する。

小学校英語教育の研究者というとおそらく99%が「援助者目線」であるように思う。当然ながら小学校外国語活動は教員養成をすっ飛ばして導入するという力技の結果、小学校教員は外部の専門家に大幅に頼らざるを得なくなったという事情がある。しかし、それはそれとして中立的な立場の研究者がほとんどいないのは学問としてはかなり異常である(つまり、外国語活動の「なし崩し」的導入は、学問的不健全さを副産物として生み出したわけである)。

そもそも学校教育機関はかなりの程度自律的に機能している組織であって、研究者の援助などはふつう必要としていない。
だからといって、学校と研究者の間にはまったく接点がないかというとそんなことはない。伝統的に多くの教育学者(のうち特に授業学者と呼ばれる人々)は教育現場に頻繁に入り込んできた。しかし、そのスタンスは援助者としてではなく、あくまで知的探求者としてである。つまり、教育現場の観察を通して新たな知見を見つけ出そうとする人々である。

有名な例としては杉並区立和田中だろう。和田中は(援助者ではなく)知的探求者としての研究者に門を広く開いていた。もう少し「有名でない」(しかし徹底的な)調査としては、阪大の教育学・教育社会学のグループによる「効果のある学校」研究があげられるだろうか(ちなみに、質的調査・量的調査双方をつかったいわゆる Mixed Method の研究であるが、当の研究者はそんな名乗りは特にしていない。学校調査で「ミックス」を行うことは当然だからだ。)

サポート役として現場に入った研究者が効果検証役も兼ねれば良いのではないかと思う人もいるかもしれない。現に、今までの小学校英語教育研究者はほとんどがこのようなスタンスである。

しかし、こうしたデザインの調査はかなり悪手である。もし修士の院生がこのような調査をやろうとしたら全力で止められるだろう(大学の先生はなまじ「権威」があるせいで他の人から止めてもらえないだけである)。
第一に、中立性の問題である。研究者がサポートとして参加した場合、その学校の「成果」の少なくとも何%かはその研究者の功績となるわけである。したがって、明らかに中立性を欠いている。

第二に、調査リソースの配分の問題である。サポート役と効果検証役を兼ねるということは、要はサポートの「片手間」で効果検証を行うということである。百歩譲ってごく素朴な計量調査なら可能かもしれないが、質的調査を片手間で行うのはまず不可能である。「いや、可能だ」という研究者がいたとしたら、それはちょっと調査をなめ過ぎだと思う。

一方、このような事情を深刻に考え、「ハードルの高い質的調査は無理だから代わりに量的調査にしましょう」という判断をするのなら、わざわざ事例報告でエビデンスを取る必要はない。そもそも最初から大規模な量的調査で検証するべきである。

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