新自由主義的な教育言説・能力言説が吹き荒れる韓国において、「英語力」がいかにそのような言説の磁場にあるかを検討した論文。
分析対象は保守系メディア(『朝鮮日報』『中央日報』『東亜日報』------Cho-Joong-Dong------に現れた「英語サクセスストーリー」である。要は、英語でキャリアアップを成し遂げた(と描写される)人々である。
「英語でキャリアアップ」という話は日本のビジネス言説でもしょっちゅう見るが、韓国では英語狂乱 (English frenzy) という言葉があるほど激しくかつ露骨らしい。日本と比較してどれくらい熾烈かは定かではないが、著者の要約によれば、韓国人労働者にとって英語を学ぶのはもはや単なるオプションではなくて、実際、誰も英語学習への投資から逃れることはできない、基本的な要件あり、「英語を知らない人は、新自由主義的主体としての責任を果たさず、人的資本の形成を怠るような人である」(p.26)と強烈である。
「社会の英語熱」はあくまで言説なので、実態とは食い違うことはよくあることである。実際、日本の英語熱に関しては私が反証している------「言われるほど、日本人は英語学習に追い立てられていない」と(『日本人と英語の社会学』第5章)。したがって、English frenzy のナラティブな要約は(たとえ研究者のものだとしても------実際、日本に関しては研究者もよく間違えていた)けっこう慎重に取り扱う必要があるのだが、まあ、私は韓国社会を知らないので著者を信じるしかない。
論文に戻る。新聞記事上でピックアップされる人は、実際のところ、「英語でキャリアアップした人」の平均像などではなく、保守メディア、さらには保守メディアの背後のイデオロギーである新自由主義の観点から見て「理想的な英語学習者」であると著者は指摘する。
この記事に登場する人はみな言わば「グローバルエリート」(英語を使い、かつ高度な熟練が必要な責任ある仕事を任される)と呼べる人々である。韓国社会では、このような職業へのアクセスは社会経済的リソースに大きく左右されるが、その点は無視・消去(obscure/erase)され、「たゆまぬ努力」のような個人的要因だけが強調される。「消去」の結果、新自由主義的な個人主義的能力観(能力は個人の所有物であるからたゆまぬ努力で磨かなければならない/能力がない人は磨く努力をしなかったということである)はますます自然化していく。