一応、英語教育政策を専門にしていてこの研究分野の未来についてわりと深刻に考えていると思うので、その点について日々考えていたことを書く。
政治学者(とくに政治思想系)のひとが論じる言語教育政策論は、ディシプリンや背景知識が違いすぎて、逆に参考になるんだけど、英語の先生の英語教育政策論は新しい知見があることは稀なので、だいたい流し読みである。
英語の先生による英語教育政策論のイメージは以下のような感じ。
グローバル化!国際語!コミュニケーション!教育予算少ない!研修大事!国際語!日本人らしい英語!コミュニケーション!研修大事!アイデンティティ!コミュニケーション!CEFR!国際語!入試!諸外国すげー!研修大事!英語だけではダメ!国際語!文法も大事!コミュニケーション!日本文化!コミュニケーション!(後略)
言語政策研究は、研究対象そのものに注目する限り、地域研究や歴史学、政治学、社会学辺りと近い(教育政策という意味ではあと教育学も)。しかし、研究者の顔ぶれはかなり違う。この分野に「参入」した人の院生時代の専門は文学や言語学、言語教育などという状況がけっこう最近まであった(他分野であれ院生として専門的に学んだ経験があるならまだ良いほうで、語学教師や文科省調査官から一足飛びに「言語政策研究者」になる人もいる―――かなり頭が痛い)。そいう意味で、言語政策研究はある種の「余技」のような位置づけですらあった。
あくまで「余技」としてなので、地域研究者や政策研究者から見るとかなりやばいものが多かった。英語教育政策の研究発表のときなどは、教室の後ろのほうに座っていた地域研究者が「また英語の先生のお遊戯会が始まった(苦笑)」と揶揄していたのを何度も聞いた。これは日本の場合にかぎらず、英語圏の場合でも同様だ。
そりゃまあ、どこかの国に(科研の金で)海外旅行気分で行って授業参観したのをまとめた程度の「政策研究」や、英語で書かれた(現地語で書かれていない)資料を継ぎ接ぎした「まとめ学習」のような「政策研究」は、真面目にトレーニングを受けてきたひとに「お遊戯会」と言われても仕方ない。
英語教育研究者がよく言うレトリックに「教育はみんなが受けた経験があるから専門家じゃなくても誰でも語れるので困ったことだ」というものがある。こういう主張にはある程度共感する。実際、非専門家が「ガハハハ」と誇大妄想的な英語教育論をぶち上げることはよくあることなので。
しかし、同じことを英語教育研究者は言語政策についてやってきていた。言語政策に関して専門的研究者がほぼゼロの状態がけっこう長く続いていたにもかかわらず、言語教育関係者はしばしば政策を語っていたからだ。
これは一見矛盾に見えるが、まあ、本人のなかではきちんと筋が通っているだろう。「教えているということは《政策に自分を投げ入れている》のだから、自分は語る資格がある」という正当化だと思う。
ここでちゃぶ台をひっくり返すと、「専門家でもない人間が教育について語るのはよくない」というレトリックはそもそも筋悪だと思う。主張の中身で判斷すればよいのだ。だから、その人の肩書に注目するのは権威主義。そもそも英語教育政策は専門家でなくても十分語れるほど知識に排他性がないのだ。どこかのラボに所属していないと研究できないとか、どこかの研究コミュニティに受け入れられていないと資料にアクセスできないとか、そういうことはない。もっとも知識の選択にバイアスがかかるという問題はあるが。
発言の中身で見て、非専門家と五十歩百歩のことしか言っていない「専門家」もけっこういるので、「専門家」という言葉をきちんと定義(場合分け)することをおすすめする。(大人の事情で身動きが取れないという人にはおすすめしない)