こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「英語教師の仕事は、まず第一に、《英語》を《教える》ことである」言説

「英語教師の仕事は、まず第一に、《英語》を《教える》ことである」などと、英語教教育業界ではよく言われる。


この命題、外部の人にとっては意味不明である。もちろん「内輪」ではコミュニケーションが成立しているのかもしれないが、それもアレなので、部外者とも共有可能な形で定式化する

定式化

極度に《純化》された「英語教育」言説において、「英語教育」とは、言語学的・心理学的に定義される《英語の言語能力》の育成を目的とした指導行為を指す

注釈

英語(科)教育の目的論でよく聞かれるものとして、

  • 英語教師の仕事は、まず第一に、《英語》を《教える》ことである


という主張がある。これは目的論そのものというよりも、「目的論は不要」論としての性格が強いかもしれない。上記は、優先順位を含意した命題だが、もう少し強いバージョンになると、

  • 英語教育とは、《英語》を《教える》こと、それ以上でもそれ以下でもない


と、優先順位どころか「正統性」を強調したりもする。


英語教育言説の外側にいる人からすれば、なんだこれは、同語反復じゃないか、と思うひとも多いだろう。なるほど、「英語教育=《英語》を《教える》こと」という定義は何も言っていないに等しい。


教育言説の歴史社会学
しかしながら、英語教育言説ではしばしば、このようなの「無内容」なことばづかいでコミュニケーションが成立してしまうことがある ---言うなれば、「無意味」な表現から「意味」が生まれる、である。とはいえ、教育言説一般がそのような事例の宝庫なので(広田照幸『教育言説の歴史社会学』参照)、特段の真新しさはないかもしれないが。


  *  *  *  


さて、冒頭の「英語教師の仕事は、まず第一に、《英語》を《教える》ことである」という命題だが、この発言が行われる文脈が重要である。「英語教育=英語を教える」言説は、たいていの場合、英語スキルの育成を重視しない英語教育目的論への批判として述べられる。スキル育成を重視しない立場とは、たとえば、国際理解教育だったり、平和教育だったりするのだが、それらが、《英語教育》から排除されたうえで、いや、それらが排除されるからこそ、《純粋な英語教育》という領域は成立するのである。この「純粋性」は、次の記事で、柳瀬陽介氏が述べているとおり、実在しない《想像上の産物》なのだが、まさにこの「純粋性」が存在すると信ずるからこそ、冒頭のような発話が可能になるのである (英語教育の哲学的探究2: 純粋な「英語教育」って何のこと? 複合的な言語能力観)。


では、「英語教育」から排除されない条件は何かと言えば、《英語能力を身につけさせる》という志向性が担保されている場合だろう。たとえ、結果的にはどれほど英語能力が身に着いた方法だったとしても(これは回顧的にしかわからない!)、教育実践者・学習実践者が、英語習得への意図を持っていると「いまここ」の観察者に理解されなければ、《純粋》な「英語教育」とはみなされないのである。


まだ、問題は残る。「英語力」とは何か、である。これも一見自明に見えるが、実際はそう単純ではない。能力概念は、基本的に雑多な現象を取り入れてしまうことができる。「国語力」には、漢字の知識量や「論理」的な作文技術だけでなく、観賞能力とか「共感するこころ」(=共感能力!)までも含んでしまうことはその好例である(手前ミソで恐縮だが拙著「『ことばのちから』というイデオロギー ―言語現象を『能力化』するまなざしを問う―」をご笑覧)。


したがって、何が「英語力」で、何が非・英語力かという、境界設定が重要になるわけだが、ここで重要な貢献を果たすのは、心理学・言語学的な能力観である。心理学的・言語学的な能力では、上述の「観賞能力」といったような審美的な要因は排除され、また、「共感するこころ」のような道徳的な要因は排除される。(言語学・心理学の「境界設定」問題は依然残るが、とりあえずおいておく)。こうした言語学・心理学とは「無関係」とされる要因が排除されて、英語力概念は「純化」される。なお、英語教育の学問的ディスコースは、心理学(教育心理学)と言語学(英語学)から大きな影響を受けているので、あながち新奇なアイディアではないはずだ。