EASOLA: Education, Anthropology, and Sociology of Language: 第7回例会、7月18日
- D論につながる発見があった!やったね!、とか
- みんな忙しいんだよ、とか
様々な複雑な感情が駆けめぐったプレゼンだった。
以下、要約。(脚注は寺沢のコメント)
Critical Framework
"Critical" とは何か?を考えながら、応用言語学の諸研究の問題点を明らかにする*1
(A)対象と距離を取る("Critical thinking")
- キーワード
- 客観的、誤謬を避けるためのスキル、視野の広さ、合理的思考
- 具体例
- クリティカルシンキング2、クリティカルリーディング、ウィドウソンの弁
- 理論的背景
- 人間主義的な平等観(「人はみな本質的に合理的」)
(B) 「社会」との関連を考える("Social relevance")
(C) 社会の悪を正し、人々を「解放」する("Emancipatory modernism")
(D) 留保なき他者批判/自己省察("Problematizing practice")
Concluding Concerns
CALx に対する否定的な反応
Davies 1999:
- 「CALx 論者は、言語に関する『真の問題』が何なのかわかっていない」
- 「CALx 論者は、50s からずっと『応用言語学』がやってきたことと全然違うことをやっている」
Widdowson 2001
- 「CALx 論者は、ある一つの見方をイデオロギー的に信じ込んでいる」
ペニクックの回答
上のような批判は(批判それ自体はもっともだけれども)、CALx に対する批判としては「的外れ」である(→3 節の議論)
「クリティカル/ヒポクリティカル」論を受けて
- 偽善1 - 倫理的責任の拒否
- 批判者は、(言語に関わる)不平等・貧困・人種差別等の政治問題を、学術/応用言語学と無関係だとし、それらへのコミットメントを放棄している
- 偽善2 - 政治的責任の拒否
- CALx は、しばしば「政治的だ」という理由で批判されるが、「政治的であること=問題」という認識がひとつの政治観である(事なかれ主義のリベラリズム)。にも関わらず批判者はそれを理解していない
- 偽善3 - 知的責任の拒否
- 批判者は、ほとんどの場合、CALx の背後の諸先行研究(批判理論、現代思想、ポストコロニアリズム、クイアセオリー等)を理解していない7
- 偽善4:社会的・文化的責任の拒否
- 主流の応用言語学に対する違和感の表明は、CALx やその周辺領域だけから出ているわけではない。世界中の様々な立場の様々な人々が、おかしいと思い始めているのである。
CALx のあるべき姿
"movable praxis"
"synergy", "hetorosis", and "hybrid"
*1:ペニクックは、Pennycook (2001)でも述べているが、保守派言語論(e.g.「国家のアイデンティティたる国語云々」「琉球語などは存在しない。あれは日本語の方言だ」)や俗流言語論(e.g. 「最近の若者のことばは、乱れている。みっともない」「最近の若者は、コミュニケーション能力が低い」)をそもそも相手にしていない。こうしたペニクックの姿勢は、本論文が理論的整理である点を差し引いても、ある意味で問題が多いように思われる。言語に関する社会問題を考える上で、「ことば」言説とでも呼ぶべきものが果たしている役割は大きく、そして、その「ことば」言説の一大潮流は、言語学理論でも社会学理論でもなく、素人=言語理論や、素朴=言語理論であるからだ。例えば、早期英語教育における「臨界期」の議論などはその典型。