こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

EASOLAで発表、Pennycook論文(「批判的応用言語学」)

EASOLA: Education, Anthropology, and Sociology of Language: 第7回例会、7月18日

  • D論につながる発見があった!やったね!、とか
  • みんな忙しいんだよ、とか

様々な複雑な感情が駆けめぐったプレゼンだった。


以下、要約。(脚注は寺沢のコメント)



Alastair Pennycook (2006). Critical applied linguistics. In A. Davies & C. Elder, (Eds), Handbook of Applied Linguistics (pp.784-807). Oxford: Blackwell



Critical Framework

"Critical" とは何か?を考えながら、応用言語学の諸研究の問題点を明らかにする*1

(A)対象と距離を取る("Critical thinking")
キーワード
客観的、誤謬を避けるためのスキル、視野の広さ、合理的思考
具体例
クリティカルシンキング2、クリティカルリーディング、ウィドウソンの弁
理論的背景
人間主義的な平等観(「人はみな本質的に合理的」)
(B) 「社会」との関連を考える("Social relevance")
キーワード
言語と社会の関連、コンテクスト化、リアル
理論的背景
社会構築主義*2、文脈主義
限界1
社会(マクロ)と言語現象(ミクロ)の接続が弱い("decontextualized context", "overlocalized", "undertheorized") →例えば次のような視点がない:「グローバル資本主義(マクロ)と教室の言語使用(ミクロ)のダイナミックな関係性」
限界2
「言語現象は、社会“問題”である」という視点の欠如、不平等・(言語的)抑圧へのコミットメントがない
(C) 社会の悪を正し、人々を「解放」する("Emancipatory modernism")
キーワード
解放志向の近代主義、正義・権利、社会の不正と闘う(「痛み」をなくす)、社会変革
理論的背景
批判理論(フランクフルト学派)、
限界点
偽りの「真実」に対し、「本当の真実」を対置する(→合理性、リアリズム、科学性といった概念を安易に信じている→「知的には保守的な考え方」)
(D) 留保なき他者批判/自己省察("Problematizing practice")
キーワード
前提に対する問い(Cf. フェミニズム、アンチ差別、ポストコロニアリズムポストモダニズム、クイアセオリー、「西洋批判を越えた西洋批判」(post-Occidentalism))
理論的背景1
「知」の限界を自覚、「無政府主義に基づく排外主義」(anarcho-particularism(( 特定の理論に依拠せず、様々な諸理論の問題点を指摘する、という意味だと思われる。Google 検索でも、本書のペニクックの用法しかヒットしない。)))
理論的背景2
社会批判(単なる「ラディカルな相対主義ニヒリズム」ではない)

Concluding Concerns

CALx に対する否定的な反応

Davies 1999:

  • 「CALx 論者は、言語に関する『真の問題』が何なのかわかっていない」
  • 「CALx 論者は、50s からずっと『応用言語学』がやってきたことと全然違うことをやっている」


Widdowson 2001

  • 「CALx 論者は、ある一つの見方をイデオロギー的に信じ込んでいる」
ペニクックの回答

上のような批判は(批判それ自体はもっともだけれども)、CALx に対する批判としては「的外れ」である(→3 節の議論)

「クリティカル/ヒポクリティカル」論を受けて
偽善1 - 倫理的責任の拒否
批判者は、(言語に関わる)不平等・貧困・人種差別等の政治問題を、学術/応用言語学と無関係だとし、それらへのコミットメントを放棄している
偽善2 - 政治的責任の拒否
CALx は、しばしば「政治的だ」という理由で批判されるが、「政治的であること=問題」という認識がひとつの政治観である(事なかれ主義のリベラリズム)。にも関わらず批判者はそれを理解していない
偽善3 - 知的責任の拒否
批判者は、ほとんどの場合、CALx の背後の諸先行研究(批判理論、現代思想、ポストコロニアリズム、クイアセオリー等)を理解していない7
偽善4:社会的・文化的責任の拒否
主流の応用言語学に対する違和感の表明は、CALx やその周辺領域だけから出ているわけではない。世界中の様々な立場の様々な人々が、おかしいと思い始めているのである。
CALx のあるべき姿

"movable praxis"
"synergy", "hetorosis", and "hybrid"

*1:ペニクックは、Pennycook (2001)でも述べているが、保守派言語論(e.g.「国家のアイデンティティたる国語云々」「琉球語などは存在しない。あれは日本語の方言だ」)や俗流言語論(e.g. 「最近の若者のことばは、乱れている。みっともない」「最近の若者は、コミュニケーション能力が低い」)をそもそも相手にしていない。こうしたペニクックの姿勢は、本論文が理論的整理である点を差し引いても、ある意味で問題が多いように思われる。言語に関する社会問題を考える上で、「ことば」言説とでも呼ぶべきものが果たしている役割は大きく、そして、その「ことば」言説の一大潮流は、言語学理論でも社会学理論でもなく、素人=言語理論や、素朴=言語理論であるからだ。例えば、早期英語教育における「臨界期」の議論などはその典型。

*2:社会構築主義がここに含まれるのは疑問?ペニクックはどのような意図で言っているのだろうか?