こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

Yosso, T. 2005. Whose culture has capital? A critical race theory discussion of community cultural wealth. Race, Ethnicity and Education. 8(1), 69-91.


人種的マイノリティの「文化」的資源の位置づけを、Critical Race Theory(批判的人種理論:CRT)の観点から理論化した論文。8ページにもわたる参考文献が示すとおり、基本的に、理論的/レビュー的な論考である。


大まかに言えば、前半は批判的人種理論の解説、後半はマイノリティの「文化」的資源(=文化資本)の理論化である。ここで「再理論化」と表現したのは、本稿の一連の作業には、ブルデュー文化資本理論(正確に言えば、ブルデュー的な「文化」解釈に依拠した「欠損理論(deficit theory)」)に対する異議申し立てを含むからである。(なお、後述するとおり、著者のブルデュー理論の理解には問題が多いと感じる)

[前半] 批判的人種理論について


教育の文脈において、理論/実践を方向付ける批判的人種理論(CRT)の原理(tenet)は次のとおり:

1. 人種/人種差別およびその他の被抑圧形態の「間中心性」(intercentricity)
  • CRTは、人種を巡る抑圧と、その他の人種的な諸抑圧(例:ジェンダー、階級、移民の地位、名前、生物学的特質、訛り、セクシュアリティ)を不可分なものとして取り扱う
2. 支配的なイデオロギーに対する異議申し立て
  • 「白人」中心主義的な教育制度を批判し、それに依拠した現存の教育・研究は客観的でもなく中立的でもないという前提に立つ
3. 社会正義へのコミットメント
4. 経験的知識の中心的役割
  • 有色人種が経験を通して得てきた知識に焦点をあてる(したがって、有色人種のナラティブや個人史に注目することになる)
5. 諸学問の越境的視点(transdisciplinary perspective)
  • 人種の問題を、エスニック研究、女性学社会学歴史学、法学、心理学などの知見を援用し、歴史的かつ現代的に分析する。

[後半] 有色人種の「文化資本」の再理論化


従来の欠損理論に基づいた文化資本の解釈がいかに限界があるか、そして、それに代わる理論はどのようなものになり得るかを的確に要約している箇所を引用する

...deficit scholars bemoan a lack of cultural capital or what Hirsh ... terms "cultural literacy" in low income Communities of Colors. Such research utilizes a deficit analytical lens and places value judgments on communities that often do not have access to White, middle or upper class resources. In contrast, CRT shifts the research lens away from a deficit view of Communities of Color as places full of cultural poverty or disadvantages, and instead focuses on and learns from these communities' cultural assets and wealth...(p.82)


[寺沢訳] 欠損論者は、低所得の有色人種コミュニティが文化資本――あるいはハーシュが言うところの「文化的リテラシー」――を欠いていることに不満感を表す。そうした研究は欠損論的な分析視角を用いることで、白人の中上流階級のリソースへのアクセスが閉ざされがちなコミュニティに対する価値判断を下すのである。対照的に、CRTは、有色人種のコミュニティを、文化的貧困や文化的ハンデに満たされた場とは見なさない。むしろ、それに代えて、そのコミュニティの文化的財産や文化的富に焦点をあて、かつ、それらから学ぼうとする視点をとる。


著者は、多くの先行研究の知見から、有色人種コミュニティは、次のような「文化的財産/富」=新たな「文化資本」を持っているという。いずれも従来の文化資本理論においては、「資本」として見なされにくかったものである。

1. 向上心という資本(aspirational capital)
  • 将来への希望・夢を維持する能力。子どもの生活をよりよいものにするために、教育にかける期待。
2. 言語的資本
  • 2つ以上の言語/スタイルの日常的な使用経験にもとづく知的・社会的スキル。
3. 家系的資本(familial capital)
  • コミュニティとの健全な連帯感がもたらす文化的知識。
4. 社会関係資本(social capital)
  • 人々やコミュニティの資源へのネットワーク。
5. 「切り抜ける」ための資本(navigational capital)
  • 様々な差別・困難に対抗するため、社会制度をうまく操っていく知識・スキル。
6. 抵抗という資本(resistant capital)
  • 不平等に立ち向かう行動をはぐくむ知識・スキル


上記の6つの資本は、ともすると、「個人が所有する知識・スキル」として理解されやすいものかもしれないが、それだだけではなく「有色人種コミュニティが保有している」という点が重要である。だからこそ、コミュニティのメンバーは、特定の「場」においてこれらを「資本」として利用できるのである。ただし、同時にこれは、特定の「場」以外では、資本として利用できないことも意味する。したがって、エンパワーメントを考える上では、「資本」が資本としての力を発現できるような「場」をどのように創出するかが重要であることになる。

応用言語学の視点から


批判理論や文化資本を人種問題と結びつける視点は、アラステア・ペニクックの『批判的応用言語学』(原題:Critical Applied Linguistics: A Critical Introduction, 2001)にも提示されていたものだが、(紙幅の都合からか)必ずしも深化されていたとは言い難い。したがって、本稿は、ペニクックの議論を、批判的人種理論の観点から補完するものと言えよう。


また、言語学/応用言語学からの独自の貢献を考える上では、上記6つの「資本」のうち、2つめの「言語的資本」が重要であるだろう。特に応用言語学の一大潮流は、第二言語バイリンガリズムに関する研究であるので、いかに個人が複数の言語を使用あるいは保持しているかという観点から、CRTの問題意識に寄与できるかもしれない。


ただし、注意すべきは、コミュニティ成員の多言語使用を(応用言語学がよくやってしまうように)脱文脈化(言語現象が生起する場に固有の文脈変数を捨象してしまうこと)してはならないことである。「資本はある特定の『場』において、資本としての力を生み出す」という理論的前提に依拠するならば、こうした多言語使用を個人の能力の範疇においてのみ理解することは問題が多く、また、人種をめぐる不平等の問題を正面から扱うことが困難になるからである。


なお、ブルデュー文化資本理論(あるいは、それに影響を受けた議論・研究)が、いわば「欠損理論」として、批判的に検討されているように読めるが、こうしたブルデュー理解はかなり的をはずしているように思う。もしかしたら、ブルデュー批判の意図はなくて、「ブルデューを誤読した研究者への批判」が主眼なのかもしれないが、だとすれば、ブルデューを引き合いに出す必要はなくなるはずである(バジル・バーンスタインでも良いし、ポール・ウィリスでもよいし、それこそ E.D.ハーシュの「文化リテラシー」でもよい)。