こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

SLA読書会、第2回(12/19)、コメント


 →ハンドアウト(pdf)はこちら

  • 山岡俊比古著 『第2言語習得研究』( 桐原ユニ、1997)
    • 第2章「第2言語習得の自然な道筋と創造的構築仮説」(pp.29-64)


私のコメント

チョムスキー「革命」による影響のタイムラグ?

チョムスキー行動主義心理学を徹底的に批判し、言語観に「革命」が起きたとされるのは、だいたい1960年前後だが、L2研究およびL2教授にそうした波が訪れるのは、もうすこし後になってからのようである。本書の記述に従うならば、少なくとも60年代のアメリカにおいて、オーディオリンガル法は「公式的な理論」であったという(本書 p.33)。これはなぜか。とりあえず思いつくものは、次の可能性:

単純な情報伝達の遅れ

「人はそれまで親しんだ信念や習慣を簡単には変更できない」などと言った理由から、理論的な「革命」を知ったとしても、すぐに実践を方向転換することはできなかった

素朴理論の優勢

そもそも「習慣形成」という考え方は、外国語教師や研究者のなかで「素朴理論」だったため、その背後に行動主義心理学的仮定があることにあまり意識がいかなかった。じじつ、Practice makes perfect といった考え方は、心理学など学んだことがない一般の人においても十分受け入れられている学習観である


L1研究の「模倣」と社会的変数の捨象

L2習得は、L1よりも多くの社会的要因が介在する現象だが、そうした変数は、捨象されるべき(すくなくとも統制されるべき)ものとして扱われており、現在でも、一部に対抗的アプローチは提唱されてはいるものの(e.g. sociocultural theory by James P. Lantolf)、大勢は変わっていない。こうした「偏り」の原因は、本章で示されたとおり、SLAの出自がL1研究の知見に追いつくことを志向していた点に求められるかもしれない。もし、人類学的興味や教育学的必要性が、SLA研究需要を押し上げた大きな源泉であるのならば、あらかじめ社会的な変数を捨象するというリサーチデザインは成立しなかったはずである。


SLAが前提とする人間観(生物主義/マルクス主義ポストモダン

SLA初期の研究では、言語習得を生体「内」的な現象として理解する傾向が強かったと言える。「誤りに対する見方の根本的変化」(本書 p. 49)を、ある種の「人間観の転換」「ヒューマニズム的言語観への移行」と見なすことも可能であるが、依然として、その生物主義的な見方は変化を受けていないようである(むしろL1研究の生得主義的言語(習得)観の影響から、そうした見方はより強まったとさえ言えるかもしれない)。
この点は、当時(60s〜70s)のアカデミアの全体的状況を視野に入れると、若干奇異に映る。60年代以降、特にポスト構造主義ポストモダニズムの隆盛により、様々な学問領域において、「人間」概念、特に「人間の普遍性」に関する前提が、激しく揺さぶられ、そしてその妥当性が問い直されていく時期にあたるわけだが、SLA研究の発展はむしろそうした流れに逆行していくように見える。こうした相違を考える上で、当時の言語学/応用言語学/言語教育を取り巻く、知の状況がどのようなものになっていたかを考察することもおもしろいかもしれない。なお、主流の教育学ポストモダニズムの影響を免れなかったが、言語教育ではそうならなかったというのも興味深い。


モニターモデルは、「理論」なのか

本書では、モニター・モデルの中核はインプット仮説であるとされており(p. 59)、たしかにそのように読める。そのような点を前提にすると、モニターモデルを構成する5つの仮説群は、並列的なものではなく、階層的な構造を持っていることがわかる。つまり、コアとしての「インプット仮説」とそれを補完するための4つの補助仮説である。つまり、「言語は意味理解を通じて習得されるはずだ」という根本思想(ハードコア)があって、そうした「信念」に都合が悪い事例や根拠不足の点を説明する(ように見える)4つの補助仮説という関係であるように思われる*1
実際には、「意味が分かれば習得が起きる」というのは普遍的な現象ではなく個人差が大きいが、そうした反証へのディフェンスとして「モニター仮説」「情意フィルター仮説」が利用される。また、意味理解を習得の必要条件ではなく、必要十分条件にしてしまった時点で、「習得」と「学習」を区別せざるを得なかった。また、インプット仮説に「i +1」というある意味で俗流発達観的な考え方*2を導入した以上(これ自体もひとつの補助仮説のようにも見える)、「自然順序仮説」で根拠付けが必要になった。こうした理論的構造が確かならば、モニター・モデルは、「言語は意味を通して学ばれるはずだ」という、ある種の「コミュニケーション・イデオロギー」を前提にしており、その理論の恣意性が露わになる。ただ、科学哲学の知見から見れば、これは何もクラシェンに限ったはなしではなく、科学者が何らかの「疑われることのない信念」を出発点に理論を構築していくことは、よくあることであるが。

*1:ここで「ハードコア」「補助仮説」というのは、イムレ・ラカトシュ(科学哲学者)のリサーチプログラム論より。特定の「科学理論」において、決して揺るがない(とされている)ものが「ハードコア」で、不利な証拠から「ハードコア」を防御するのが、「補助仮説」。

*2:このような段階的発達観は、たとえば、A. L. ゲゼルの提唱した「学習のためのレディネス」論のように、20世紀初頭からすでに存在した。