こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「英語ができたら給料が増えた!」を検証した論文、スイスの場合(Grin 2001)

「進研ゼミ始めたら彼女ができた!」



ではない。



Grin, F. (2001), English as economic value: facts and fallacies. World Englishes, 20: 65-78.


この論文は、英語力の有無によってスイスの労働者の賃金にはどのような影響がでるかということを検討した論文。じつは、ぼくも、まったくおなじことを日本の労働市場でやった論文を昨年書いたんだが、このGrinの論文を引用するのをすっかり忘れていた・・・。いや、(たいへん苦しい)言い訳させていただくと、読んではいました、線も引いた跡がありますし。しかし、すっかり存在を忘れていて、つい先日家の掃除をしていたときに発掘されたのだった・・・。拙稿の結論に直接的な影響はないけれど、分析枠組みが同じである以上、比較検討することでもうすこし深い議論ができただろうから残念。


ジャーナルは、World Englishesという雑誌で、会員には言語学系の人も多く、必ずしも言語現象の社会科学的分析に明るくないせいなのかなんなのか、1節と2節は、経済学の初歩的な話が続く。1節は、「言語の経済学」の射程のご紹介〜といったノリの文章。つづく2節は、言語を経済学的に分析をするうえで注意しておいたほうがよいことをあげている。介在する変数がたくさんあるから注意、相関は因果関係ではない、言語現象と経済的現象の関係を明確にすべし、といった基本的な事項。


また、分析上の便利な区別として、以下のようなものを上げている。これらを知っておくと、3節の実証分析におけるGrinの立場を(多少は)わかりやすくするように思うので、すこしだけ詳しく抜き書きしておく。

  • 1. 因果の向き:「言語→経済的価値」vs.「経済的価値→言語」
  • 2. 規制の有無:「市場の純粋な力」 vs. 「介入による影響」
  • 3. 市場 vs. 非市場的要因(たとえば象徴的効果)
  • 4. ミクロ vs. マクロ
  • 5. allocative vs. distributive (資源の効率的な配分メカニズムに注目するか、リソースの分配の平等性に注目するか)


というわけで、3節からいよいよ実証分析が始まる。
リサーチクエスチョンは以下のとおり:



スイスの労働市場で英語はどのような経済的価値を持つか、あるとすれば、どれくらいか?


つまり、上の「便利な区別」にしたがえば、Grinの分析枠組みは、

  • 1. 「英語力→賃金」という因果モデルで、
  • 2. 規制のない状況(i.e. スイスの労働市場そのままの状況)を想定し、
  • 3. 労働市場のはたらきに注目し、
  • 4. ミクロレベル(i.e. 労働者)の分析を行い、
  • 5. 資源の配分メカニズムの解明に主たる関心を置く

という感じになる。


実は英語力の賃金上昇効果に関する研究は、労働経済学の分野でけっこうされているのだけれど、ESL環境(英語が「生活言語」になっている状況)のものが多い。しかも、サンプルは移民である場合も多い(おそらく英語能力を問う設問を含む国勢調査(米国やオーストラリアなど)を利用すると、自然にこういう分析枠組みになってしまうんだと思う)。それだと、「国際語としての英語」の経済的効果はわからないよね、と著者は言い、でも、スイスのデータ(「FLCSプロジェクト」)ならばその問いにうまくフィットする、と述べる。


まず、セルフレポート式の英語力レベル別に賃金(フルタイムの就労で得られた所得)の平均値を見て、賃金差が生じていることを確認。


これだけでは疑似相関の疑いをぬぐえないので、ついで、OLS(最小二乗法)で、教育レベル・仕事の経験をコントロールした賃金平均値を比較している。結果は以下の表のとおり。

男性・賃金(スイスフラン 女性・賃金(スイスフラン
英語力:流暢 7378(1.31倍) 4689(1.22倍)
    基本レベル 6696(1.19倍) 4927(1.28倍)
    低レベル 6432(1.14倍) 4339(1.12倍)
    なし 5644(1.00倍) 3857(1.00倍)


著者の解釈としては、教育レベル・仕事の経験をコントロールしてもなお英語力の有無によって有意な上昇が見られるのだから、英語力による賃金上昇効果はあるのではないか、というもの。(ただし、一般に言われるような「英語ができるほど生産性があがるから高収入」という人的資本論的な解釈だけでなく、「EFL環境で英語力が高いひとは学習能力や一般的認知能力も高いから、仕事もできるだろうと雇用者が判断する」という「シグナリング理論」的な可能性の余地も残している)。


また、表を見ても女性の英語力の効果は、男性のように一貫した上昇を示していない。この理由として、著者は、「流暢」な英語使用者の女性はパートタイム就労が多いとか、だから「シグナル」として使われる面が大きいからなどといった説明をしているが、そのデータや計算結果が示されていないのでちょっとどれくらい信じていいかわからない。さらに、著者自身が認めているが、サンプルサイズが中規模(N = 2400)なので、職種・産業別に推定しているわけではないことにも注意。つまり、このなかには、極端な話、日夜世界を飛び回っている商社マンも、365日羊の世話をして暮らしている人もぜんぶ一緒になっているのである。もし後者のタイプの人々にも英語力の効果があらわれていたら、それはもはや「英語の経済的価値」ではなく、「シグナル」か何かである可能性が高い。特に、学力・学歴・学校歴と英語力が高く相関している日本の場合、この問題は重要だろう。


興味深いのは、英語力の効果が現れるのは、スイスのドイツ語地域であって、フランス語地域だとドイツ語の能力のほうに所得上昇効果があるというもの。結果しか書かれておらず、そのメカニズムはよくわからない。


最後のディスカッションの部分では、このスイスの結果が、他の非・英語圏の国(いわゆる「EFL諸国」)にも一般化できるか、という問題を論じている。スイスでなぜ英語が経済的価値を持っているのかという問にたいして、筆者は、スイスの高い貿易依存度をあげている。だとすると、次のような国にも「英語ができたら給料が増える」という現象は見られるだろうと言う:

Of all OECD countries, Switzerland has the highest index of foreign trade per capita, so we would expect similar results ... for the Netherlands, Austria, Germany, France and Italy. A similar argument can be made for non-OECD countries, including economically developed countries in Asia. The order of magnitude of the returns on English competence may therefore be lower in countries other than Switzerland, but the structural logic is similar...
(p.74)


日本は貿易額自体は世界有数だが、人口もかなり多いので、1人当たり貿易額で見た場合、特に大きな額があるわけではない。このロジックが正しいとすると、英語の経済的価値はまだそれほど大きくないことが予想される。


実際、私の論文ではそういう結論です―宣伝オチ