こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「学校英語教育は英会話学校ではない」論

《よく訓練された》英語教育目的論では、しばしば聞く議論。


なじみのない人にどういうロジックなのかおおざっぱにまとめると、

  • 普通教育は、社会の要求に直接応じるものではない
  • 英会話の指導は、社会の要求に直接応じるものである。
  • ゆえに、英会話の指導は、普通教育にはなじまない

となる。


たとえば、以下のような文章。山田雄一郎氏の『英語教育はなぜ間違うのか』より。

義務教育の目的は、社会の求めるものに直接応じることではない。義務教育を、職業訓練と同列に扱ってはならない。仮に、英語が国際社会を切り抜けるための武器だとしても、それはあくまでも考慮すべきことであって直接の目的にすべきものではない。義務教育は、学習者が将来必要とするかも知れない諸能力を身に付けるための準備期間である。十分な基礎訓練こそ大切にすべきで、いたずらに断片的知識を増やすことを目的にしてはいけない。


...(中略)...


学校英語教育の目的を英会話能力などに限定してはいけない。外国語の学習は、もっと豊かなものにつながっている。英語を丁寧に学習すれば、それまで見えなかった日本語が見えてくる。英語という言語が持っている広い世界は、われわれのものの見方に新しい視点を加えてくれる。それは、英会話の暗記学習では得られない刺激的で魅力にあふれた世界である。学校英語教育が英会話学校のまねごとになってはならない。その目的は、学習指導要領にある通り、正しく「コミュニケーション能力の基礎を養う」...ことに置かれなくてはならない。


(pp. 20-21、強調原文)

しかし、まあ、いろいろモヤモヤするのである。

たとえば、

  • なぜ、普通教育は、社会の要求に直接応じる必要はないのか

とか

  • 「社会の要求に直接応じなくてよい、基礎になればよい」という正当化を持ち出すのならば、この世界のあらゆるものは、普通教育のカリキュラムに組み込めてしまうのではないか

というあたり。


前者は、終戦直後の(普通)教育ではむしろ「社会の要求に(直接)応じる」ことが「善」とされていたわけで、このギャップはどうなのか。


後者は、「新たな視野とか思考力とかの『基礎』いうなら、「英語学習」やなくても、アラビア語でもオセロでもカーリングでもなんでもええやん」ということにつながりはしないか、という懸念。やや防御力が弱い正当化論という印象。


この辺は教育哲学業界ではけっこう重要な問題として議論されている印象があるけれど、外国語教育業界ではけっこう簡単にスルーされている気がする。すみません、もし既にしている人がいたら教えてください。


英語教育はなぜ間違うのか (ちくま新書)

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