結論からいうと、「生活上のニーズをほぼ等閑視したまま義務教育課程のメンバーになれたのは英語科だけ」という話です。ですから、この結論に違和感を感じない人は(そして興味を感じない人も)、以下を読む必要はとくにありません。
前口上
以前、『シノドス』で以下の記事を書きました。
「日本は英語化している」は本当か?――日本人の1割も英語を必要としていない / 寺沢拓敬 / 言語社会学 | SYNODOS -シノドス-
好意的なコメントも多数もらいましたが、批判的なコメントもけっこうもらいました。批判的なコメントで最も多かったもののひとつが、以下の様なタイプ。
「実生活で必要性がある人がごくわずかだ」なんて理由で必要性が否定できるなら、英語だけでなく学校の教科はみんな廃止になってしまう。
たとえば、はてなブックマークのページについているコメントには、そういう「批判」がちらほら見えます。
この手の「批判」は以下に述べるとおり「的外れ」です。もちろん、的外れな批判を誘発したのは私の文章なので、そこは反省し、注釈をつけたいと思います。つまり、以下の文章は注釈であって「反論」ではありません。もし反論をするなら「そもそも私は『やらなくてよい』などと主張していません」で済む話ですが、それにはあまり意味はありません。ここで注釈をつけたい重要な点は、他教科と比較したときの義務教育課程における外国語科の特殊性です。
学校の教育内容はニーズと無関係の場合もある
まず、教育課程は社会のニーズとある程度独立していることはごく普通です。たしかに、各教科の学習項目の中に社会での必要性がよくわからないものが多数含まれています。英語以外でよく持ち出されるのは、微積分や古文、それに歴史(特に近代以前)などでしょうか。
ただし、この主張は中等教育課程の教科を前提にしていることが多く、小学校の学習内容ではふつう意味を成さないでしょう(そして、なかには中学校になっても生活上のニーズに密着している学習項目も少しはあります)。たとえば、分数の計算や身近な現象に関する理科的知識は小学校段階での学習事項ですが、その有用性に対してまで疑義を感じる人はほとんどいないのではないでしょうか。
現在の教育課程では、高校の数学(代数学・幾何学など)と小学校の算数(お金の計算など)にゆるやかな(しかし制度的に保証された)連続性を認めています。これにより、社会のニーズと学問体系がなんとか結びついています。数学だけでなく、外国語科以外のほとんどの教科にこの構造があります。
したがって、教育課程編成は、大雑把に言えば、学問体系トップダウン型と必要性ボトムアップ型の綱引きで行われるのが普通です。つまり、上級学校での学習の基礎となる事項を下の学校段階に下ろす力、および、生活上のニーズをもとに学習事項を下から立ち上げていく力、これらの2つの力の相互作用により教育課程が編成されるわけです。
ボトムアップ型カリキュラム編成がなかった外国語科
しかし、中学校外国語科にこの「綱引き」はありませんでした。現在の中学校英語は、社会のニーズとはほぼ無関係に「事実上の必修」になったのであって、そこにはボトムアップ型の力学はほとんど確認できません(詳細は拙著にも引用していますが、英語教育関係者自身が「英語科でそういうカリキュラム編成をするのは無理〜」みたいなことを言っています)
そもそも新制中学校の外国語科には戦前の義務教育課程の「遺産」はありませんでした。いわば「根無し草」として教育課程編成が行われたわけですが、その導入にはアメリカ側のイニシアチブが大きく、日本の教育関係者は消極的だったようです。
参考→ 占領期日本における英語教育構想 - こにしき(言葉、日本社会、教育)
まとめ
最初の「批判」に対する応答に戻ります。たしかに「学校で学ぶことの多くに社会的ニーズは薄い。英語だけじゃないだろう」という主張は「どんな教科もニーズが自明でない学習事項を含む」という意味なら事実です。しかし、「どんな教科にも、外国語科と 同じくらい ニーズ不明の学習事項がある」という意味なら明らかに間違いです。これが外国語科の特殊性です。
余談 ニーズ中心のカリキュラム編成
なお、「社会のニーズと無関係に教育課程は編成される」が常に真とは限りません。戦後初期の初等中等教育に簡単に反例が見つかるからです。生活上のニーズを教育課程編成の中核に位置づけようとした教育運動がありました。ただ、その期間は短く、したがって、定着しなかったという意味に限っていえば「成功」はしませんでした。