こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

楽天の公用語化の根拠とは

読んだ。



英語のビジネスでの重要性を軽視する企業経営者はいないと思うけれど、公用語化、つまり社員全員に強制するかどうかとなると話は別。

「全員」に英語力を要求するのは大それた提案だと思う。しかし、その強制として三木谷氏があげている根拠に唖然とした。曰く「楽天は一致団結を大事にしてきたから」。


結局、最後は精神主義ですか。なんかもっとこう「経営の面でのバラ色の未来」みたいなのを語ってほしかった。外資がこれだけ呼び込めたよ!とかアジアで新しいビジネスを立ち上げられたよ!とか。

しかし「一致団結」オチは腰砕けである。だったら、給与も「一致団結」しなよ。

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「大きなコストにもかかわらず精神主義的な論拠で全員に課す」という話。このようなコストベネフィット計算を無視した議論は、「英語はツールにすぎない、たかが英語だ」というタイトルに込められた意味にも現れている。語学は「ツール」って言っても、特に膨大な習得コストが必要な「ツール」でしょ。


「語学=ツール」の比喩に関して僕がよく言うのは、「語学はツールに過ぎないという価値観は尊重するけど、ツールって言ったってナイフとかライターとかそういうツールじゃないでしょう」ということ。語学がツールだとしても、飛行機みたいなものに喩えるのが適切ではないだろうか。つまり、習得してしまえばすごく便利だけれど、習得のコストはそれなりにかかるタイプの「ツール」である。

僕は思春期以前に、一度、バイリンガルになっておくことに決定的な意味があると考えている。いわゆる臨界期仮説だ。…それまでに一度、バイリンガルになった人と、思春期以降、外国語を学習してバイリンガルになった人の間には大きなちがいがあると言われる。(p. 171)


これなんかもコスト度外視の典型的な主張だと思うが、それはともかく「第二言語習得の臨界期」の理解がおかしくないか。「大きな違いがある」とされているのは事実だが、それは「使える/使えない」という実務上の話ではなくて、もっと微細な認知面での差異だからだ(たとえば、「ネイティブスピーカーが違和感を感じるような、ごく微妙な文法ミスに気づくかどうか」)。