こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

水村美苗氏の主張は「エリート主義」的英語教育論なのか?

水村氏美苗著『日本語が亡びるとき』を読んだ。7章の英語教育政策論の部分について。


日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
水村氏は英語教育にいくつかの「ラディカル」な(ように見える)提言をしているが、彼女が仮想敵とする現状、および、それに対する対案との関係は、かなりわかりづらい。彼女の「現状認識→提言」というロジックは、流れるように書かれており、そういう意味で文学的な文章だが、無用な混乱を招くのも不幸なことなので、以下、「流れない文章」で整理しておきたい。


水村氏は、「英語の世紀」のなかで取りうるべき言語政策の「方針」を3つ提示している。

そして、その目的を達するにおいて、原理的に考えれば、三つの方針がある。あくまで、原理的に考えればのことではあるが。
Iは、〈国語〉を英語にしてしまうこと。
IIは、国民の全員がバイリンガルになるのを目指すこと。
IIIは、国民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと。
(p.267)


ここで、注目を集める(そして集めたであろう)選択肢は、IIおよびIIIではないだろうか。英語教育の対象を、国民の「全員」とするか、「一部」に限定するか。これは、いわゆる「卓越性 vs. 平等性」の問題として理解してしまいやすい。つまり、前者は、英語教育は少数精鋭で効率的にやることを重視する立場であり、一方、後者は、それは不平等だから全員に機会を提供するべきだする立場である。


ここで注目すべきは、水村氏は、あくまで「バイリンガル」育成の話をしている点である。つまり、単なる「英語がけっこうできる人」を作るべきといった程度の話ではないのである*1。なお、ここでの「バイリンガル」は、「文化(=文明)」が刻まれた書き言葉を、日英両言語で操れることといった意味であり、水村氏独自の語法である(バイリテラシーと言ったほうが誤解が少ないかもしれない)。その点に注意は必要であるが、以下の議論にはそれほど深刻な影響はないと思うので、このまま続ける。


バイリンガル」の定義がどうであれ、水村氏が念頭に置いている最終到達度は、きわめてハイレベルである。このような、非常に高い達成目標を掲げた英語教育政策は、「国民の全員」が対象であれ「一部」のみが対象であれ、少なくとも戦後に関しては、まったく思い当たらない。とするならば、水村氏の提案は、戦後の英語教育政策とは無関係に、いわばまったく異なる文脈の政策として理解してもよさそうなものである。


しかし、そのわりには、水村氏は、戦後の英語教育政策を「仮想敵」にしているのである。曰く、「総バイリンガル社会」を目指していた、と。*2 繰り返しになるが、日本の教育政策史上、「総バイリンガル社会」を目指した政策は存在しない*3。おそらく、史上最も「国家総動員」的な提言に彩られた文科省「英語が使える日本人の育成のための行動計画」ですら、「国民全員をバイリンガルにしよう」などという非常に高い目標は書かれていないのである。


ところで、水村氏の教育提言は、エリート主義的なものなのか?「国策として、少数の〈選ばれた人〉を育てるほかはない(p.277)」という文言を見る限り、そのように思えてしまう。


しかし、次の文言を見ると必ずしもそうではない。


本の学校教育のなかの必修科目としての英語は、「ここまで」という線をはっきり打ち立てる。それは、より根源的には、すべての日本人がバイリンガルになる必要などさらさらないという前提――すなわち、先ほども言ったように、日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという前提を、はっきりと打ち立てるということである。
(p.290、強調引用者)

上記からあきらかなとおり、水村氏は、「必修英語」の廃止など主張していない。むしろ必修英語を前提とし、そのうえで、学校英語教育を土台にした、あるいは、学校英語教育とは別枠の、「バイリンガル」育成コースを用意すべきだと述べているのだろう。ここで、水村氏がしきりに牽制しているのは、「学校英語は『総バイリンガル』などという高望みをしないように」ということだろうが、再々度の繰り返しになるが、そもそもそのような「高望み」をしている政策は実在しないのである。


以上の点から、水村氏の提案を整理すると、次のようになる。

  • 国民全員が「必修英語」で到達すべき目標はある程度の水準にとどめる
  • その上で、少数の〈選ばれた人〉のみを高度なバイリンガルに育成する


このように定式化すると、戦後英語教育史的には、ごくありふれた提言であることがわかるだろう。
実際、「水村案」は、1970年代のいわゆる「平泉試案」*4と似ている。平泉氏は、(論争相手の渡部昇一氏にはずっと誤解されていたままだったが)「書き言葉」の能力も含めた高度な英語力を備えた人材育成を強調していたので、水村氏の「バイリンガル」と整合的ですらある。(なお平泉試案では、水村氏のように「少数に限定する」ということを否定しており、ただ「希望者に課す」と提言しているだけであることは注意すべきである)


このように見てくると、水村氏の主張は、「エリート主義」的で、「卓越性」を「平等性」に大きく優先させている、戦後の英語教育政策をラディカルに問い直す提案という見方は正しくないだろう。

むしろ、従来の英語教育の枠組みに基づきつつ、そこに「バイリンガル育成」というオプションを付け加えたものと理解するのが妥当だと思われる。

*1:じじつ、私自身も、この部分にかなり混乱させられた。

*2:水村氏の「総バイリンガル社会」批判は、直接的には、2000年代前半のいわゆる「英語第二公用語論」に向けたものだが、次の記述を見ると、両者に連続性を認めていることはあきらかである。

「英語公用語論」はいつのまにか立ち消えになった。しかし、その根底にある前提は、日本政府、そして日本国民によって、ほんとうの意味で否定れてはいない。
ほかならぬ、高校も含む、学校教育を通じて多くの人が英語をできるようになればなるほどいいという前提である。
日本政府も、日本人も、「英語公用語論」を唱えた人たちと知らず知らずのうちにその前提を共有しているのである。
(p.284)

*3:なお、「一部の者」という限定がつくなら、水村のいう意味での「バイリンガル」育成という実践は明治期の前半、近代の幕開けの時期にあったと言えるかも知れない。それがどれほど「政策」として意識化されていたかは、不勉強ゆえよく知らないが。

*4:平泉渉・元参議院議員が提出した英語教育改革案