要点は上のタイトルがすべて。
「英語ができてもグローバル人材とは呼べない」という主張をよく聞く。
もちろんそれはその通りなのだが、実は「グローバル人材=英語がよくできる人」と考えている人はほとんどいないだろう。その点で上記の発言は、ストローマン論法のきらいがある。
グロ人育成論の「英語教育」推し
たしかに、グローバル人材の育成を目指す教育プログラムでは、多くの場合、「高度の英語力育成」という話が伴う。
たとえば、「グローバル人材育成教育学会」というものがあってその第3回全国大会のプログラムを見ると、見事に「英語教育祭り」である。
- 基調講演
- 「日本・アジアにおけるグローバル人材育成のための英語教育:現在と未来」
- シンポジウム
- 「グローバル人材のための英語教育の多様性と更なる可能性」
だからと言って、「グロ人育成=英語教育」という等式が関係者の中にあると考えるのは単純化のし過ぎだろう。
実際、「我こそはグローバル人材だ」と思っている人が上のような「英語教育祭り」を目の当たりにして内心忸怩たる思いであろうことは想像に難くない。この手の人はふつう、だいたいタフネスとかリーダーシップとか異文化に対する柔軟性とか幅広い教養とかそういう能力・資質の重要性を強調する。もちろん「自他ともに認めるグローバル人材」の人々の多くが英語はバリバリできるが、「英語力なんてものはオマケに過ぎない」と思っている人が大半ではないだろうか。
それにもかかわらず、グロ人育成プログラムを考えた時になぜ「英語教育祭り」になるかといえば、「グローバル人材」(などと称されるもの)の構成要素のうち、語学力が一番客観的で、教育上の操作可能性が高いからというのが最大の理由だろう。
「リーダーシップ」とか「異文化コミュニケーション能力」とか、そういうものは育成しようと思ってもどうやればいいかわからない。下手をすると、自己啓発セミナーみたいなものになってしまう。(まあ、我がセミナーの手法を使えばグローバル人材は育成できると本気で思ってるセミナー屋も存在するだろうけど)
そういう意味で、結局、教育に携わる人間は抽象的なものを追い求めざるをえないことなのかもしれない。たとえば「英語力育成のためだけの英語教育」などという無前提な教育に邁進できるほど多くの教師のハートは強くないだろう。
抽象的な目的が追求されるのは常
戦後の学校英語教育では「英語学習を通した教養育成」がの究極的な目標とされた。「英語学習を通したグローバル人材育成」もこれと相似形だろう。
いや、いわゆる「第二言語としての英語教育」(ESL)は、英語力育成を唯一の目的にしているのではないかと思う人もいるかもしれない。違うと思う。ESLは生活上の英語使用ニーズが遍在しているからこそ、「英語力育成のためだけの英語教育」という目的論がまるで所与のもののように見えるだけである。実際のところは「英語力育成を通した生活力の向上」が究極的な目的でのはずだ。究極的な目的が単に言語化されないだけであって、実際には常に存在しているのである。
「英語力育成のための英語教育」という議論のナンセンスさは、「英語」を他の言語に置き換えてみればよくわかるだろう。「ロシア語力育成のためのロシア語教育」。いや個別言語を代入しなくても、「外国語力育成のための外国語教育」で、いかにトートロジーか十分わかるはずである。