こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「日常的に英語が使われていない日本では,教室内でこそ英語をできるだけ使うべきだ」について。

  • (1)「日本では英語はあくまで外国語。学校外での英語の接触量が少ないので,教室ではできるだけ英語を話して,インプット総量を増やすべきだ」

という意見をよく目にする。(論文でも目にした)

しかし,この理屈は変。

同じ出発点から,

  • (2)「日本では英語はあくまで外国語。学校外での英語の接触量が少ないので,インプット総量はたかが知れており,必ずしも英語を話す必要はない」

も導けるからだ。

暗黙的な補助理論

要するに,上記の主張は前提と結論がつながっていない。ただ,言いたいことはわかる。わかるのだが,論理をただしくつなげるには,以下のような補助理論を入れる必要がある。

前者の理屈には,

  • (1a)「インプット総量が小さいうちは,わずかな量の差でもパフォーマンスに大きく影響する」か,あるいは,
  • (1b)「教室での英語使用は,卒業以降の学習継続(=継続的なインプット)や習慣形成のための動機づけに効果がある」

辺りの補助理論がないと理屈が通らない。

他方,後者の理屈には,

  • (2a)「インプット総量は線形的に効くので,わずかな量の差がパフォーマンスに影響することはない」

辺りの補助理論が必要。

オッカムの剃刀的には,線形を仮定する 2a の理屈のほうがよりシンプルなので,冗長な (1a) の非線形仮定よりも分がある。もっとも,(2)のような「~する必要はない」という主張は,「~する必要がある」という主張よりも論理的には強いなので,アンフェアな比較ではあるけれど。

これはかなり初歩的なロジックだとおもうけれど,「英語は英語で」に強すぎる信念(賛成にせよ反対にせよ)を持っている人にはどうもわからないらしい。補助理論をすっとばしてしまうようだ。この手の「情熱的」な人は,政策論に手を出すのはやめたほうがいいんじゃないんだろうか。もっとも,指導法論とかならむしろその熱意が輝くと思うけれど。

以下余談

これは実験してみないとわからないけど,私の邪推としては,「英語は英語で」支持は,純粋に指導手続き・指導原理に対する支持というより,それを可能にする教師の能力に対する肯定評価という気はするんだよね。同じ文法訳読の授業でも,その教員の背景情報が変わると,支持度が変わったりとか。

シナリオ実験で,同一の授業シナリオ(文法訳読だったり,all in English だったり)を読ませるけれど,唯一,教員の背景情報(帰国子女とか,母語が実は英語だとか,元同時通訳だとか)だけを変えておいて,最後に政策パッケージへの支持度を聞く,みたいなイメージ。

「英語は英語で教えるのが国の方針だから公立校教員は守れ」論の誤解

先日,連続ツイート(以下が発端)したものをこちらにまとめます。


「英語は英語で教えるは国の方針」の誤解

「All in English は国の方針だから公立校は守れ」論,たまに聞きますが,これはとてもよくある誤解なので,そのポイントを以下に解説します。英語教育研究者でも政策が専門じゃない場合誤解している場合すらあります。

1. 公立校(自治体立)は国の管轄ではない。

公立校がしたがうべきは,まずは地域(自治体)の判断

2. 学習指導要領はあくまで「告示」

国の方針とされるものは,学習指導要領という告示文書。告示とは,要するに,文科省の役人による作文のことである。我々の民意を直接反映しているわけではなく,したがって,法律なみの拘束力があるわけではない。

もっとも,役人が独善的に作文しているわけでもなく,民主的プロセスを経て発表されていることになっているので,相応のリスペクトはすべきだが,だとしても,法律ではまったくない。

3. 「法的拘束力」の守備範囲

学習指導要領の総体には法的拘束力があるとされているのは事実(ただし,明文規定はない。様々な教育裁判の結果,こういう判断になっただけ)。しかし,学習指導要領内の個々の記述に法的拘束力を認めるような見解は皆無(法令文じゃないので当然)。あくまで総体としての拘束力があると言ってるだけ。

4. 個別の記述を法律の条文のように誤読する愚

学習指導要領の「授業は英語で行うことを基本とする」という記述は,明らかに個々の記述の範囲のものであり,法的には個々の教員に守らせるような拘束力は一切ない。そもそも,当該の記述は「~を基本とする」であり,「英語のみで教えなければならない」とは書かれていない。

5. 指導要領の守備範囲

蛇足ついでにいうと,学習指導要領は,総体としては,国公立学校だけでなく私立学校も拘束するので,「学習指導要領の言う通りにする気がなければ,私学に行け」も荒唐無稽な主張。

【ご報告】「#英語業界のおかしなランキングを考える会」

このたび,「英語業界のおかしなランキングを考える会」を立ち上げました。

趣旨は下記のサイトにありますが,要するに,EF英語力ランキングやTOEFL国別ランキングを取り締まる有志の会です。

会員は随時募集しています。

英語業界のおかしなランキングを考える会

https://elt-ranking.jimdosite.com/

言語教育系学会のトレンド比較をした論文が出ました。(国内英語教育学会 × 海外英語教育学会 × 日本語教育学会)

今月発行された『関東甲信越英語教育学会学会誌』第37号に,私の論文「日本の英語教育学の特徴: テキストマイニングによる国際比較」が掲載されました。

手元のワードファイルをPDF化した非公式カラー版が以下です(Dropbox 共有リンク)。出版されたものと,内容は基本的に同一です1https://www.dropbox.com/scl/fi/jx1hsezsm8a63m8a56pnn/2023.pdf?rlkey=17tsgz9gyguiwzzfl9b2l6wyz&dl=0

概要

アブストを DeepL(+筆者自身の独自訂正)をかけたものが以下です。

本稿の目的は、日本における英語教育研究の特徴を明らかにすることである。この目的のため、本研究では、国内の5つの英語教育学会(CELES、JACET、JALT、JASELE、KATE)、2つの国際英語教育学会AsiaTEFL、TESOL International Association),そして,日本語教育学会の合計8学会の大会要旨を分析した。

本研究では、これまでの研究で一般的に用いられてきた解釈的なコーディング手法の代わりに、テキストマイニングに基づく内容分析を用いて、膨大なデータセットを処理し、国際比較・学会間比較を行う。

7,000以上の発表要旨を構造トピックモデルで分析した結果、日本国内の英語教育学会(CELES、JASELE、KATEなど)は、国際的な英語教育学会に比べて、言語分析(文法や認知メカニズムなど)に重点を置き、社会的文脈に基づく枠組み(言語学習者のアイデンティティなど)に重点を置かない傾向があることが明らかになった。また、国内の英語教育学会に所属する研究者は、日本の教育システムを前提とした枠組みを採用し、そのシステム外の現象にはあまり注意を払わない傾向がある。以上の結果を踏まえ、本稿では、英語教育研究における学術動向分析の今後の方向性について論じる。

図の抜粋

以下,分析内容がイメージしやすそうな図をいくつか抜粋します。

下の図は,学会ごとにトピックの出現傾向を計算して,それを対応分析で表現したもの。

学会 ✕ トピックの対応分析

ちなみに,◯が学会,▲がトピックです。

NKGは日本語教育学会の意味です。CELESは中部地区英語教育学会,KATEは関東甲信越英語教育学会,JASELEは全国英語教育学会の意味です(ドメ英語教育学会は見事に右側で固まっていますね)。トピック名はところどころ謎表記がありますが,こちらは本文を参照してください。


また,下の図は,学会間ではっきりした差がみられた9つのトピックに絞り,その出現度を図示したものです。

学会間で差が見られたトピック9個


  1. 印刷会社はとくに版組などしていないようで,Word版がそのまま誌面にのっている状態なので,構成もたぶんほぼ一緒です。

英語教育実施状況調査に対する批判記事(『AERA』 2023年10月2日号)

本日発売の『AERA』 2023年10月2日号で,文科省「英語教育実施状況調査」を正面から批判した記事が掲載されています(私も取材を受けました)。

タイトルは,

  • 正しい英語力測れない はりぼての「調査」

です。

私が知る限り,同調査に対する批判記事は,大手メディアではAERAが初めてではないでしょうか。同調査の問題点は専門家(研究者・現場の教員)にとってはよく知られていますが,一見地味なのか,メディアはどこも取り上げていないようです(しかも,情けないことに『英語教育』をはじめとした業界誌も沈黙)。

同記事は,理論的批判以上に,現職教員への取材が圧巻です(「英語力日本一」の自治体の教員の声も載っています)。地道な取材を通して,教育現場で調査実務がどう運用されていて,それがいかに問題含みかが浮き彫りになっています。

今回,このテーマをピックアップし,AERA編集部に持ち込んでいただいた記者の方の鋭い着眼点に敬意を表します。

publications.asahi.com

日本の英語教育:どう評価し,どんな未来像を描くか?(その2)

こちらの記事の続き。


後手後手の改革は?

とはいっても,近年,日本でも英語教育改革が進んでいる。 こうした改革の波は,国内の社会条件の変化というより,「よその国がやっているから日本も」といった他律的な理屈の結果だと思われる。こうした後手後手の姿勢は,改革に対する真剣さの欠如として厳しく批判されてきた。 しかし,視点を変えると,逆の評価も可能である。 たとえば,日本の英語教育政策の改革スピードが遅いのは,政権から合理的根拠もなくトップダウンで降ってくる急進的な英語教育改革プランを,文科省が適度にブレーキをかけて,現実的かつ穏当なプランに落とし込んでいるからだ,という解釈である。 実際,拙著でも,こういう面をとらえて,一部(あくまで一部だが)肯定的な評価をしている(寺沢拓敬 2020『小学校英語のジレンマ』岩波新書)。

ちなみに,先進的な英語教育改革を進めているともてはやされる国々でも,急進的な改革に起因する歪みが生じている場合も多い。 英語教育改革を煽る日本のメディアは,往々にして,そうした影の部分を報じないが,現地ではすでに厳しく批判されていることもある(Hayes, David. 2022. Early Language Learning in Context. Multilingual Matters)。 たとえば,日本では英語教育先進国と称揚されている韓国だが,韓国の研究者は,急進的な英語化が韓国社会の分断を招いていると厳しく批判している(Park, Joseph Sung-Yul. 2021. In Pursuit of English. Oxford University Press.)。

語学をめぐる技術革新

さらに,近年の社会情勢を考えると,こうした後手後手の改革姿勢も実はよい面もあったという可能性も思い浮かぶ。 つまり,英語教育に前のめりにならず,どちらかといえば冷めた態度だったことが功を奏し,無駄な改革努力にリソースを割くことがなかったという可能性である。こう考えるのは,ここ最近,以前にはまったく疑われることのなかった英語=国際語の未来に対し,疑念が投げかけられることが徐々に増えてきたからである。 その背景は大別して,2つある。

ひとつは,AIをはじめとした技術革新である。 とくに,機械翻訳のここ数年の進展はめざましく,業務内容によっては完全に実用的なレベルに達している。 「ビジネスには使える代物ではない」というのが機械翻訳の常識だった10年前からすれば隔世の感がある。 もちろん,現時点のAI技術にも課題が多数あり,我々を英語学習から解放してくれる救世主と見なすには時期尚早ではあるものの,今後どのように「化ける」かも未知数である。 10年前を思い出すに,AIや機械翻訳で,英語での読み書きがここまで楽になると予測していた人はわずかだったと思う。 そういう意味で,これからの10年間で,AIがどれだけ進化し,どれだけ英語学習の必要性を無効化するかはまったく予想がつかないが,少なくとも言えるのは,以前は完全に自明視されていた英語の未来が,徐々に不透明になりつつあることである。

コロナ禍と英語使用

もうひとつの考慮すべき背景は,近年の社会経済的な大変動である。 なかでも,コロナ禍は,国際コミュニケーションのあり方を再考させる契機になった。

感染拡大が始まった当初,国境を越えた人の移動が一気に停止したことは記憶に新しい。 外国人と(物理的に)話すことが激減し,英語使用の機会も大幅に減るかに思われたが,実はそうはならなかったことが筆者の調査で明らかになっている(Terasawa, Takunori. 2023. Does the pandemic hamper or boost the necessity for an international language? International Journal of the Sociology of Language, 281.) これは,物理的に会う機会が減っても,オンライン会議システムなどの情報通信技術が補完することで,英語でビジネスをする機会は減らなかったことが主たる理由である。

むしろ,英語使用ニーズを左右するのは,人の流動性ではなく経済の流動性だということも明らかとなった。 簡単に言えば,景気が良くなれば国際ビジネスの機会が増え,英語使用も増えるが,景気が悪くなれば英語使用は減る,ということである。 実は,英語使用の減少は,2000年代後半の世界金融危機の際にも見られており,景気と英語使用ニーズは連動しているのである(前掲書『「日本人と英語」の社会学』)。

幸い,感染拡大初期に懸念されていた世界不況はいまのところ現実化していない。 ただ,感染症以外の懸念事項は多数あり(戦争,物価高騰,エネルギー危機,債務危機),世界経済の先行きは不透明である。 経済が冷え込んだり,脱グローバル化ブロック経済化)が進んだら,英語の未来は安泰ではなくなるだろう。

対案としての汎用スキル育成

以上,完全に結果論ではあるが,日本の英語教育が国際的に見て「遅れている」ことは,むしろ,無駄に踊らされていない,ある種の慎重さの現れとして肯定的に評価できる可能性を論じてきた。 もっとも,ここで論じたことは,完全に机上の空論ではないものの,あくまで仮定に仮定を重ねた予に過ぎない。 機械翻訳の進展にせよ,グローバル経済の動向にせよ,多数の複雑性・不確実性を含んでいる。 ただ,少なくとも言えるのは,一昔前にはまったく疑われることのなかった英語=国際語の未来は,必ずしも盤石ではないということである。

英語教育に前のめりになるのは悪手であるという「診断」を前提にして,では,代わりに私たち何に注力すべきなのだろうか。

これは,抽象的になら容易に回答可能だ――「時代が変わっても陳腐化しないような汎用スキルの育成に力を入れるべきだ」となる。 他方,では汎用スキルとは具体的に何かと問われれば,途端に難しくなる。 というのも,あるスキルが陳腐化するかどうかは社会や技術革新の状況に依存するが,その社会条件の予測が不透明であれば汎用スキルを特定するのも困難だからである。 そもそも英語力自体が,一種の汎用スキル(グローバルに活躍するための基礎技能)として,国際的にもてはやされてきたことを思い出したい。

汎用スキルの有力な候補とされるものは,一応ある。たとえば,母語の能力や,論理的思考力,非認知的能力と呼ばれるようなものである。 しかし,これらも,ここ最近の技術革新(たとえばChatGPT)を見るに,本当にAIに取って代わられない代物なのかは,正直,よくわからない。 また,こうしたスキルが,具体的にどのような教育カリキュラムでなら育成できるのか,そもそもトレーニングして向上するものなのかもはっきりしたことは不明である。

なんとも歯切れの悪い処方箋となってしまったが,それだけ未来を志向して教育を考えるというのは難しい。 ただ,歯切れが悪くなったのは,過去および現状のデータを見ながら総合的に「診断」したからこそ,とも言えよう。 前述したように,他国の英語教育改革は,データや研究の知見に基づかずに,時の政権の空想的あるいは強迫的な英語観に駆りたてられて強引に進められたものも多い。 一方,現代の私たちは,空想的にではなく,現実的に「英語教育の未来」を論じる段階に立っているのである。

日本の英語教育:どう評価し,どんな未来像を描くか?(その1)

英語教育政策を研究してきて20年近くになるが,「日本の英語教育は成果をあげていない,これではダメだ」という決まり文句を食傷気味になるほど耳にしてきた。 こうした主張には,たいてい,同じく紋切り型の処方箋――たとえば,「文法を教えるのをやめて会話から始めよ」「もっと早期から初めて,赤ちゃんが言葉を覚えるように」「教師を全員ネイティブにせよ」――が続く。

だが,こうした処方箋は,その前提となる診断が大雑把過ぎるゆえ,実は,的を外しているものが多い。 本稿では,この「診断」の面,つまりこれまでの英語教育をどう評価するかという観点に紙幅を割き,その上で,ささやかだが無難な処方箋を添えてみたい。

英語教育の批判のされ方

「わが国の英語教育は,成果をあげていない」と言うとき,「成果」とは何を基準にしているのだろうか。 概して,2つある。 ひとつが,絶対的な基準に基づく英語教育批判で,「最低でも◯◯ができる英語力がないと,生活・仕事でやっていけない。しかし,わが国の英語教育はこのレベルの人材を育てられていない」という主張である。 もうひとつが,相対的な基準に基づく批判で,他の国と比べて日本人の英語力が低く,色々な面で不利益が生じていることを問題にする主張である。

日本の英語教育批判は,ほとんどが相対的な基準に基づくものである――絶対的な基準で批判しているつもりの人も多いだろうが,実際には相対的な基準を問題にしているのである。 なぜなら,日本の社会条件では,「最低限,このレベルの英語力は必要」といった基準を設定しにくいからである。

日本は,国内的インフラ(日本語話者,日本語による情報アクセス,国内的取引)が発達しており,英語ができなくても仕事や生活はまわる。 そうである以上,国民全般に期待される英語力といったものは想定できない。 同様の状況は,日本に限らず,非英語圏と言われる国にはたいてい当てはまる。 たとえば,英語教育先進国として日本と頻繁に比較される韓国でも,英語ができなくてもやっていけるだけの国内的インフラが成立している。 結局,こうした社会条件があるからこそ,私たちの英語教育批判は,「よその国はこんなに英語ができる。これでは,日本は経済競争に負けてしまうし,国際政治でもプレゼンスを発揮できない」という国際比較の枠組みに縛られざるをえないのである。

適切な国際比較?

では,この国際比較という枠組みは適切に使われているだろうか。 言い換えれば,日本と世界の比較は,フェアに行われているのだろうか。 結論から言うと,否である。

メディアにあふれる「日本の英語教育批判・他国の英語教育称賛」は,しばしば社会階層という観点がきれいに抜け落ちている。 典型的なものが,日本の平均的な人と,外国のエリート層を素朴に比較して,日本は遅れていると判断してしまう誤謬である。

しかし,国際的な英語力統計を見る限り,日本だけが際立って英語力が低いわけではない。 たしかに日本には英語ができる人が少ないことは事実だが,それは他国にも共通して見られる傾向である。

この点をデータで確認しよう。英語力ランキングはいい加減なものが蔓延しているが(例,TOEFLやEF英語能力指数を使ったランキング),幸運なことに,東アジアに関して言えば信頼できる調査がいくつか行われている。そのうちの東アジア社会調査(East Asia Social Survey)によると,中国・日本・韓国・台湾において英語が「よくできる」と答えた人の割合は,図のとおりである(Terasawa, Takunori. 2023. East Asia and English language speakers. Asian Englishes, Online First)。

東アジア市民の英語力

たしかに,日本のパーセンテージは相対的に低い。しかし,他の国も2%は越えておらず,「どんぐりの背比べ」といった形容のほうが合っているだろう。この図は,東アジア4カ国のみの結果だが,他の調査データを見ても,非英語圏国にはどこでも似たような状況が見られる(寺沢拓敬2015. 『『「日本人と英語」の社会学』研究社,3章)。

政府の熱意

もっとも,日本の英語教育が国際的に遅れていると言われるのは,英語力以外にも理由がある。 それは,英語教育政策に対する熱意が相対的に低い点だ。

政府が英語教育にどれだけコスト(授業時間,予算,および,文化的・社会的・政治的コスト)をかけているかという観点でいえば,日本は最もコストをかけない国のひとつである (ちなみに,日本だけが「最低クラス」というわけではなく,ブラジルやインドネシアなど,いくつかの国もこのカテゴリに入る)。 たとえば,日本の英語(および外国語)の授業時間数は国際的に見ても少ない。英語教育の始まる年齢も早くない。また,小学校での英語(教科)が初めて必修化されたのが2020年というのも,国際的に見るとかなり遅い部類である。

こうした政策の必然的な帰結として,国民の平均的な英語学習量・接触量は相対的に小さくなる。 日本人の英語力が高くないのも無理もないことである。 たしかに,日本特有の指導体制や教え方,教材,人々のメンタリティも,英語の上達を阻害している面があるかもしれない。しかし,学習量・接触量が圧倒的に不足している現実の前では,そうした要因は決定的なものではないと思う。 良い教材を使おうが,優れた指導法を導入しようが,学習の絶対量が十分でなければ,いずれにせよ英語は身につかないからだ。

熱意の低さは,前述した日本の社会条件に起因する。 英語ができないという理由で失業するようなことは稀である。 日本語でだいたいの情報は手に入る。 エリートとしての成功が英語力と固く結びついている一部の国と違い,日本は,英語なしでもキャリア形成が可能な社会であり,いきおい,英語熱は,他国に比べて,あっさりしたものになるのである。

(つづく)

(2328字)