こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

日本の英語教育:どう評価し,どんな未来像を描くか?(その1)

英語教育政策を研究してきて20年近くになるが,「日本の英語教育は成果をあげていない,これではダメだ」という決まり文句を食傷気味になるほど耳にしてきた。 こうした主張には,たいてい,同じく紋切り型の処方箋――たとえば,「文法を教えるのをやめて会話から始めよ」「もっと早期から初めて,赤ちゃんが言葉を覚えるように」「教師を全員ネイティブにせよ」――が続く。

だが,こうした処方箋は,その前提となる診断が大雑把過ぎるゆえ,実は,的を外しているものが多い。 本稿では,この「診断」の面,つまりこれまでの英語教育をどう評価するかという観点に紙幅を割き,その上で,ささやかだが無難な処方箋を添えてみたい。

英語教育の批判のされ方

「わが国の英語教育は,成果をあげていない」と言うとき,「成果」とは何を基準にしているのだろうか。 概して,2つある。 ひとつが,絶対的な基準に基づく英語教育批判で,「最低でも◯◯ができる英語力がないと,生活・仕事でやっていけない。しかし,わが国の英語教育はこのレベルの人材を育てられていない」という主張である。 もうひとつが,相対的な基準に基づく批判で,他の国と比べて日本人の英語力が低く,色々な面で不利益が生じていることを問題にする主張である。

日本の英語教育批判は,ほとんどが相対的な基準に基づくものである――絶対的な基準で批判しているつもりの人も多いだろうが,実際には相対的な基準を問題にしているのである。 なぜなら,日本の社会条件では,「最低限,このレベルの英語力は必要」といった基準を設定しにくいからである。

日本は,国内的インフラ(日本語話者,日本語による情報アクセス,国内的取引)が発達しており,英語ができなくても仕事や生活はまわる。 そうである以上,国民全般に期待される英語力といったものは想定できない。 同様の状況は,日本に限らず,非英語圏と言われる国にはたいてい当てはまる。 たとえば,英語教育先進国として日本と頻繁に比較される韓国でも,英語ができなくてもやっていけるだけの国内的インフラが成立している。 結局,こうした社会条件があるからこそ,私たちの英語教育批判は,「よその国はこんなに英語ができる。これでは,日本は経済競争に負けてしまうし,国際政治でもプレゼンスを発揮できない」という国際比較の枠組みに縛られざるをえないのである。

適切な国際比較?

では,この国際比較という枠組みは適切に使われているだろうか。 言い換えれば,日本と世界の比較は,フェアに行われているのだろうか。 結論から言うと,否である。

メディアにあふれる「日本の英語教育批判・他国の英語教育称賛」は,しばしば社会階層という観点がきれいに抜け落ちている。 典型的なものが,日本の平均的な人と,外国のエリート層を素朴に比較して,日本は遅れていると判断してしまう誤謬である。

しかし,国際的な英語力統計を見る限り,日本だけが際立って英語力が低いわけではない。 たしかに日本には英語ができる人が少ないことは事実だが,それは他国にも共通して見られる傾向である。

この点をデータで確認しよう。英語力ランキングはいい加減なものが蔓延しているが(例,TOEFLやEF英語能力指数を使ったランキング),幸運なことに,東アジアに関して言えば信頼できる調査がいくつか行われている。そのうちの東アジア社会調査(East Asia Social Survey)によると,中国・日本・韓国・台湾において英語が「よくできる」と答えた人の割合は,図のとおりである(Terasawa, Takunori. 2023. East Asia and English language speakers. Asian Englishes, Online First)。

東アジア市民の英語力

たしかに,日本のパーセンテージは相対的に低い。しかし,他の国も2%は越えておらず,「どんぐりの背比べ」といった形容のほうが合っているだろう。この図は,東アジア4カ国のみの結果だが,他の調査データを見ても,非英語圏国にはどこでも似たような状況が見られる(寺沢拓敬2015. 『『「日本人と英語」の社会学』研究社,3章)。

政府の熱意

もっとも,日本の英語教育が国際的に遅れていると言われるのは,英語力以外にも理由がある。 それは,英語教育政策に対する熱意が相対的に低い点だ。

政府が英語教育にどれだけコスト(授業時間,予算,および,文化的・社会的・政治的コスト)をかけているかという観点でいえば,日本は最もコストをかけない国のひとつである (ちなみに,日本だけが「最低クラス」というわけではなく,ブラジルやインドネシアなど,いくつかの国もこのカテゴリに入る)。 たとえば,日本の英語(および外国語)の授業時間数は国際的に見ても少ない。英語教育の始まる年齢も早くない。また,小学校での英語(教科)が初めて必修化されたのが2020年というのも,国際的に見るとかなり遅い部類である。

こうした政策の必然的な帰結として,国民の平均的な英語学習量・接触量は相対的に小さくなる。 日本人の英語力が高くないのも無理もないことである。 たしかに,日本特有の指導体制や教え方,教材,人々のメンタリティも,英語の上達を阻害している面があるかもしれない。しかし,学習量・接触量が圧倒的に不足している現実の前では,そうした要因は決定的なものではないと思う。 良い教材を使おうが,優れた指導法を導入しようが,学習の絶対量が十分でなければ,いずれにせよ英語は身につかないからだ。

熱意の低さは,前述した日本の社会条件に起因する。 英語ができないという理由で失業するようなことは稀である。 日本語でだいたいの情報は手に入る。 エリートとしての成功が英語力と固く結びついている一部の国と違い,日本は,英語なしでもキャリア形成が可能な社会であり,いきおい,英語熱は,他国に比べて,あっさりしたものになるのである。

(つづく)

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