こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

日本の英語教育:どう評価し,どんな未来像を描くか?(その2)

こちらの記事の続き。


後手後手の改革は?

とはいっても,近年,日本でも英語教育改革が進んでいる。 こうした改革の波は,国内の社会条件の変化というより,「よその国がやっているから日本も」といった他律的な理屈の結果だと思われる。こうした後手後手の姿勢は,改革に対する真剣さの欠如として厳しく批判されてきた。 しかし,視点を変えると,逆の評価も可能である。 たとえば,日本の英語教育政策の改革スピードが遅いのは,政権から合理的根拠もなくトップダウンで降ってくる急進的な英語教育改革プランを,文科省が適度にブレーキをかけて,現実的かつ穏当なプランに落とし込んでいるからだ,という解釈である。 実際,拙著でも,こういう面をとらえて,一部(あくまで一部だが)肯定的な評価をしている(寺沢拓敬 2020『小学校英語のジレンマ』岩波新書)。

ちなみに,先進的な英語教育改革を進めているともてはやされる国々でも,急進的な改革に起因する歪みが生じている場合も多い。 英語教育改革を煽る日本のメディアは,往々にして,そうした影の部分を報じないが,現地ではすでに厳しく批判されていることもある(Hayes, David. 2022. Early Language Learning in Context. Multilingual Matters)。 たとえば,日本では英語教育先進国と称揚されている韓国だが,韓国の研究者は,急進的な英語化が韓国社会の分断を招いていると厳しく批判している(Park, Joseph Sung-Yul. 2021. In Pursuit of English. Oxford University Press.)。

語学をめぐる技術革新

さらに,近年の社会情勢を考えると,こうした後手後手の改革姿勢も実はよい面もあったという可能性も思い浮かぶ。 つまり,英語教育に前のめりにならず,どちらかといえば冷めた態度だったことが功を奏し,無駄な改革努力にリソースを割くことがなかったという可能性である。こう考えるのは,ここ最近,以前にはまったく疑われることのなかった英語=国際語の未来に対し,疑念が投げかけられることが徐々に増えてきたからである。 その背景は大別して,2つある。

ひとつは,AIをはじめとした技術革新である。 とくに,機械翻訳のここ数年の進展はめざましく,業務内容によっては完全に実用的なレベルに達している。 「ビジネスには使える代物ではない」というのが機械翻訳の常識だった10年前からすれば隔世の感がある。 もちろん,現時点のAI技術にも課題が多数あり,我々を英語学習から解放してくれる救世主と見なすには時期尚早ではあるものの,今後どのように「化ける」かも未知数である。 10年前を思い出すに,AIや機械翻訳で,英語での読み書きがここまで楽になると予測していた人はわずかだったと思う。 そういう意味で,これからの10年間で,AIがどれだけ進化し,どれだけ英語学習の必要性を無効化するかはまったく予想がつかないが,少なくとも言えるのは,以前は完全に自明視されていた英語の未来が,徐々に不透明になりつつあることである。

コロナ禍と英語使用

もうひとつの考慮すべき背景は,近年の社会経済的な大変動である。 なかでも,コロナ禍は,国際コミュニケーションのあり方を再考させる契機になった。

感染拡大が始まった当初,国境を越えた人の移動が一気に停止したことは記憶に新しい。 外国人と(物理的に)話すことが激減し,英語使用の機会も大幅に減るかに思われたが,実はそうはならなかったことが筆者の調査で明らかになっている(Terasawa, Takunori. 2023. Does the pandemic hamper or boost the necessity for an international language? International Journal of the Sociology of Language, 281.) これは,物理的に会う機会が減っても,オンライン会議システムなどの情報通信技術が補完することで,英語でビジネスをする機会は減らなかったことが主たる理由である。

むしろ,英語使用ニーズを左右するのは,人の流動性ではなく経済の流動性だということも明らかとなった。 簡単に言えば,景気が良くなれば国際ビジネスの機会が増え,英語使用も増えるが,景気が悪くなれば英語使用は減る,ということである。 実は,英語使用の減少は,2000年代後半の世界金融危機の際にも見られており,景気と英語使用ニーズは連動しているのである(前掲書『「日本人と英語」の社会学』)。

幸い,感染拡大初期に懸念されていた世界不況はいまのところ現実化していない。 ただ,感染症以外の懸念事項は多数あり(戦争,物価高騰,エネルギー危機,債務危機),世界経済の先行きは不透明である。 経済が冷え込んだり,脱グローバル化ブロック経済化)が進んだら,英語の未来は安泰ではなくなるだろう。

対案としての汎用スキル育成

以上,完全に結果論ではあるが,日本の英語教育が国際的に見て「遅れている」ことは,むしろ,無駄に踊らされていない,ある種の慎重さの現れとして肯定的に評価できる可能性を論じてきた。 もっとも,ここで論じたことは,完全に机上の空論ではないものの,あくまで仮定に仮定を重ねた予に過ぎない。 機械翻訳の進展にせよ,グローバル経済の動向にせよ,多数の複雑性・不確実性を含んでいる。 ただ,少なくとも言えるのは,一昔前にはまったく疑われることのなかった英語=国際語の未来は,必ずしも盤石ではないということである。

英語教育に前のめりになるのは悪手であるという「診断」を前提にして,では,代わりに私たち何に注力すべきなのだろうか。

これは,抽象的になら容易に回答可能だ――「時代が変わっても陳腐化しないような汎用スキルの育成に力を入れるべきだ」となる。 他方,では汎用スキルとは具体的に何かと問われれば,途端に難しくなる。 というのも,あるスキルが陳腐化するかどうかは社会や技術革新の状況に依存するが,その社会条件の予測が不透明であれば汎用スキルを特定するのも困難だからである。 そもそも英語力自体が,一種の汎用スキル(グローバルに活躍するための基礎技能)として,国際的にもてはやされてきたことを思い出したい。

汎用スキルの有力な候補とされるものは,一応ある。たとえば,母語の能力や,論理的思考力,非認知的能力と呼ばれるようなものである。 しかし,これらも,ここ最近の技術革新(たとえばChatGPT)を見るに,本当にAIに取って代わられない代物なのかは,正直,よくわからない。 また,こうしたスキルが,具体的にどのような教育カリキュラムでなら育成できるのか,そもそもトレーニングして向上するものなのかもはっきりしたことは不明である。

なんとも歯切れの悪い処方箋となってしまったが,それだけ未来を志向して教育を考えるというのは難しい。 ただ,歯切れが悪くなったのは,過去および現状のデータを見ながら総合的に「診断」したからこそ,とも言えよう。 前述したように,他国の英語教育改革は,データや研究の知見に基づかずに,時の政権の空想的あるいは強迫的な英語観に駆りたてられて強引に進められたものも多い。 一方,現代の私たちは,空想的にではなく,現実的に「英語教育の未来」を論じる段階に立っているのである。