こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

小学校英語論争をできるだけ短く要約する

追記:注

本記事の一部は、拙著『「なんで英語やるの?」の戦後史』(2014、研究社)の第2章に所収されています。→asin:4327410888



公立小学校への英語教育導入をめぐって主に1990年代から2000年代にかけて行われた論争(以下「小学校英語論争」)を要約する。2006年3月、中央教育審議会外国語専門部会は、公立小学校における英語教育の必修化を提言した(「小学校における英語教育について(外国語専門部会における審議の状況)」)。それ以前から、公立小学校への英語教育導入をめぐっては賛否両論が出ていたが、この提言をもって、「必修化」が一段と現実味を増した。その後、2008年に公示された小学校学習指導要領で「外国語活動」(小学校5・6年を対象)が小学校教育のカリキュラムに正式に取り入れられたことで、「必修化」は完了した。


なぜこんなことを、てらさわはやっているのか?どんだけ暇人なんだ?と思う方も多いかもしれないが、いま博論をまさに執筆中であり、その文章の断片(のうち、周辺的ゆえにとりあえずブログにアップしても問題ない部分)をここにコピペしています。


「診断→処方箋」モデル

まず、「論争」の構図をごく簡単に整理したい。この論争は一見きわめて多岐にわたり、混沌とした状況のように見えるが、実際は、膨大な数の論点に拡散しているわけではない。特に、賛成派の論点は、いくつかのパタンにまとめることができる。ここでは、賛成派が「小学校英語」を提案しているロジックに注目したい。このロジックを整理するうえで便利な枠組みは、「診断→処方箋→効能」という「医療」のアナロジーである。公立小学校での英語必修は、従来の学校教育制度には存在しなかったものを提案しているという点で、教育改革の一種である。「改革」である以上、現状に対して何らかの危機意識(=「『病理』の診断」)があり、その問題を「是正」するために小学校英語の必修化という「処方箋」が提案されているわけである。その「処方箋」は、当初の「病理」を改善するという「効能」を持つ。


ここではまず、「診断→処方箋」というロジックと「処方箋→効能」というロジックを別々に見ていく。以下の類型化は、寺沢 (2007; 2008) や Terasawa(2008) に基づくものだが、各論点の詳細な内容、およびこのように分類する根拠は、本論の枠を超えるのでここでは割愛し、類型化の結果だけを提示する。下の表は「診断→処方箋」モデルに基づいて、必修化論を整理したものである。「病理」的な状況の「診断」として、4つの異なる危機意識が示されている([D1][D2][D3][D4])。こうした危機意識に基づいて、「処方箋」である「小学校英語」の必修化が提案されている。

診断   処方箋
[D1] 「日本人」は外国語能力が低くグローバル化に対応できない [P] 必修化
[D2] 「日本人」は国際交流上の問題を多数抱えている [P] 必修化
[D3] (日本語の)コミュニケーションへの意欲が低下している [P] 必修化
[D4] 英語を学べる子どもとそうでない子どもがいるのは不公平 [P] 必修化


一方、次の図は、「処方箋→効能」モデルに基づく整理であり、「小学校英語」必修化によってどのような価値が達成され得るかを示している。ここでは大別して4点の「効能」がうたわれている([E1][E2][E3][E4])。

処方箋   効能
[P] 必修化 [E1]英語スキル育成
[P] 必修化 [E2]異文化への態度育成
[P] 必修化 [E3]会話への態度育成育成
[P] 必修化 [E4]英語学習への態度育成

6つの「必修化」論

では、これら「診断→処方箋」「処方箋→効能」の各ロジックはそれぞれどのように結びついているのだろうか。理論的にいえば、前者後者ともに4通りあるので4×4=16通りのパタンが想定されるが、実際に提案される「効能」は概して特定の「診断」を前提にしているため、実際に観察されるパタンはもっと少なくなり、次の表に示されているとおり、全部で6通りである。

  診断   処方箋   効能
1 D1 P E1
2 D2 P E2
3 D2 P E3
4 D3 P E3
5     P E4
6 D4 P    

では、6つのパタンを順番に見ていきたい。第1のパタンは、「D1 外国語能力の低さ」を深刻に考え、「E1 英語スキル育成」を「必修化」によって達成しようという提案であり、「小学校英語」論において最も代表的なもののひとつである。第2および第3のパタンは、「D1 『日本人』の国際交流上の問題点」(異文化に対して積極的な態度を示さない、外国人に偏見がある、いわゆる「内向き」志向など)を、「必修化」によって解決しようというものである。「効能」として、「E2 異文化への態度育成」と「E3 会話への態度育成」という異なる価値が示されている(もちろん、両者は同時に主張されることが多い)。


第4は、現代の子ども(や日本人)に日本語コミュニケーション上の問題点を抱えた人が増加している危機意識を提示し、その「処方箋」として「小学校英語必修化」による「E3 会話への態度育成」が提案されている。英語教育関係者ではない人から見たら、かなり奇抜な主張に思えるかもしれないが、学習指導要領の「解説」にも明記されているものであり、「公式見解」としての性格が強いものである*1。余談だが、「コミュニケーション上の問題を抱えた子どもが増加している」というが本当かどうか怪しい話である。だれも実証的な根拠を提示していない。むしろ、マスメディアなどのセンセーショナルな報道によって増幅された典型的な「子ども言説」「若者言説」(本田由紀内藤朝雄後藤和智著『「ニート」って言うな!』参照)である可能性が高い。英語教育が専門の「大学教授」クラスの人物がこのような認識を吐露していることもあるが、たいていの場合、日本社会研究や人類学・社会学の知見に基づいているるわけではないので、あまり信用しないほうがいいだろう。


第5の「必修化」論は、たとえば「小学校英語は英語に慣れるため」に代表されるような「E4 英語学習への態度育成」を強調するものである。これは、これまでのものと違い、どのような「診断」に基づいて提案されているか明示されることがほとんどない。その点で、いわば「根なし草」的な「処方箋」だが、このような「必修化」論を支持する論者は「診断」の必要性をそもそも認識していないのかもしれない。言い換えれば「なぜ英語に慣れることが必要なのか」は問うまでもない自明のこととされていると思われる。


最後に第6は、英語を学ぶことができる児童とそうでない児童がいるという状況を不公平と考え(D4)、こうした「格差」を是正するために、「必修化」を提案する立場である。一種の教育機会論的な発想だが、「すべての児童が英語を学ぶ」つまり「教育サービスの均一化」によって、具体的にどのような平等 ---経済的・社会的・文化的平等--- が達成されるか提示されているかは、ほとんど述べられることはない。つまり、「診断」「処方箋」に対応する「効能」が欠落しているのである。ただ、明示されていないだけで、暗黙的には「英語学習量の差が経済的・社会的・文化的格差を生む」という確固たる前提が存在しているだろう。なぜなら、「格差」を生まないような知識・技能であれば、それを学ぶ機会に偏りがあったとしても、「不公平」とは認識されないはずだからである。たとえば、バイオリンの学習機会には明らかに出身階層による偏りがある ---裕福でないと継続は難しい、家庭に「文化的」な雰囲気がないとそもそも習い始めようとしない、等--- が、だからといって、そのような「差」が「不公平」とみなされる場合はほぼ皆無である。「不公平」とみなされるからには、小学校期から英語を学ばないと(何らかの面で)不利になるという認識が浸透しているせいだろう。


小学校英語」反対論 ---「効き目がない」型

では次に、反対論者の主張を概観しよう。ここでも「医療」のアナロジーが便利である。一口に「反対論」といっても、特定の処方箋に対する「効き目がない」という批判と、「副作用が大きい」という批判は厳密に区別しておいたほうがいいだろう。前者は、「必修化」賛成論者が掲げる提案・根拠の無効性を指摘するものであり、後者は、それらがむしろ教育上深刻な事態を引き起こすとする批判である。


小学校英語」反対論の主流は、後者「副作用が大きい」論である。「効き目がない」論ももちろん存在するが、賛成論者の多様な主張に対し包括的に反論しているわけではなく、いくつかの「必修化論」批判に集中している(包括的に批判がなされていないということは、「反論しやすい部分だけが反論されている」ことを意味し、ストローマン(Strawman)的な議論の典型である。これが、「論争」を不毛なものにしている一要因であるだろう)。


では、まず「効き目がない」型の「必修化」反対論を確認しよう。理論的に言えば、次の図のとおり、「診断」に疑義を呈すパタン(A)と、「効能」に疑義を呈すパタン(B)がありえる。


診断
 
 
----------→

A 診断が間違い
処方箋
(必修化)
 
----------→

B 効能がない
効能
 
 


前述したとおり、賛成派の主張には、「診断→処方箋」「処方箋→効能」がそれぞれ4通りあるので、論点は計8通りである。したがって、理論的にいえば、反論も8通りあるはずだが、現実に観察される反論はもっと少ない。


もっとも争点になっているのは、「P→E1」、すなわち、小学校英語必修化によって、「日本人」の英語力が向上するという主張をめぐってである。両者の対立を一言で要約すれば、「小学校英語」必修化は英語の運用能力育成に大きな効果があると考える賛成派に対して、そのような効果は期待できないか、あったとしても現行の公立小学校の教育環境(カリキュラムの整備や教員の質・量など)では大した効果を見込めないと主張する反対派、という構図である。細かな議論は省略するが*2、賛成にせよ反対にせよ非常に多数の論者がこの論点に言及しており、「小学校英語」論争のなかではもっとも白熱している。


対照的に、それ以外の論点に関して際立った反論が行われている様子はない。若干反論が見られるとすれば、「D1→P」への反論(「『日本人』は英語力が低い」という「診断」への疑義)程度である。ここで若干奇妙なのは、「D2→P」や「D3→P」への反論がほとんど見られない点である。前者の「『日本人』は国際交流下手だ」という認識にせよ、後者の「現代の子どもはコミュニケーション下手だ」という認識にせよ、「日本人」や「現代の子ども」に対する偏見が色濃く反映されているものである。他分野においてはその根拠の乏しさ・イデオロギー性が批判されているにも関わらず()、小学校英語の文脈だと問題になっていないというのは奇妙である。また、「P→E2」(「小学校英語で異文化への態度が育成される」論)や「P→E3」(「小学校英語で会話に積極的になる」論)も実証性が定かではないにも関わらず、その実証性が問題にされることは管見のかぎりない。このような議論の不在は、論争の参加者の興味関心がいかに「英語スキル」に偏っているかを反映していると言えるだろう。一部の「小学校英語」スポークスマンは、「小学校英語の目的はスキル育成ではない」と再三強調しているが、実際の受容のされ方は明らかに「スキル育成」論としてであることを裏付けていると言えるかもしれない。

  1. 「日本人は国際交流下手」論は、典型的な日本人論・日本文化論だが、日本社会研究ではすでに多くの批判が存在する。例えば、ハルミ・ベフ著『イデオロギーとしての日本文化論』や、杉本良夫/ロス・マオア著『日本人論の方程式』、
  2. 「最近の子どもはコミュニケーション下手」という認識のイデオロギー性については、「若者論」批判が参考になる。前掲の『「ニート」って言うな!』など。現代の(ディス)コミュニケーション問題に特化したものとして、森真一『自己コントロールの檻 ---感情マネジメント社会の現実』など。ちなみに、てらさわも言語能力の問題に焦点化して同テーマを扱った論文を書いたことがある---寺沢拓敬 2009「ことばのちからというイデオロギー」『社会言語学』9号

小学校英語」反対論 ---「副作用が大きい」型

前述の通り、反対論の中心は「副作用が大きい」型である。「効き目がない」型にくらべれば、はるかに多くの反論が寄せられている。いずれも、「小学校英語」を必修化することによって賛成派が予期していない、否定的な結果が引き起こされることを懸念している。ここでは、どのような懸念が主張されているかを列挙するにとどめたい。


  • 学力低下が引き起こされる
    • 日本語力が下がる
      • 母語」が混乱する
      • 「国語」学習の時間が減る
    • 学力一般が下がる
  • 子どもの英語への特別視が深刻化する*3
    • 子どもから「言語は平等だ」と感じなくなる
    • 「日本人」としてのアイデンティティが損なわれる
  • 小学校教員の負担が増える
  • 子どもの負担が増える
    • (中学入試に英語が課された場合)受験英語の負担
    • 英語学習そのものの負担


上記のうち、「小学校英語で国語力が下がる」という懸念は、2006年9月の伊吹文明文部科学大臣(当時)の小学校英語否定発言でも使われたものであり、一般の人々からの認知度も高い、もっとも有名な反対論のひとつだろう。同時に、小学校英語賛成論者も、この批判に対し、徹底的に反論を行っており、「一大争点」という様相を呈している。もちろん、「国語力が下がる」という反論は、厳密性・実証性に乏しいうえにイデオロギー性が濃厚という点できわめて「素朴な」反論であり、それゆえ、「心ある」反対論者はこのロジックを採用していない。しかし、「素朴」であるがゆえに、反論しやすい論点であり、賛成論者には好んで取り上げられる。つまり、ここにも「反論しやすいものにだけ反論が集まる」という構図が見られる。また、この「国語力低下」論以外の様々な懸念に対しても、賛成論者は再反論を行っているが、ここでは割愛する。

*1:2008年8月に出された「小学校学習指導要領解説外国語活動編」には次のような記述がある。

コミュニケーションへの積極的な態度とは、日本語とは異なる外国語の音に触れることにより、外国語を注意深く聞いて相手の思いを理解しようとしたり、他者に対して自分の思いを伝えることの難しさや大切さを実感したりしながら、積極的に自分の思いを伝えようとする態度などのことである。現代の子どもたちが、自分の感情や思いを表現したり、他者のそれを受け止めたりするための語彙や表現力及び理解力に乏しいことにより、他者とのコミュニケーションが図れないケースが見られることなどからも、コミュニケーションを図ろうとする態度の育成が必要であると考える。
(p. 9、強調引用者)

この引用から明らかなとおり、現代の子どもたちのコミュニケーション状況を問題にしたうえで、「必修化」が提案されたということがわかるだろう。

*2:{詳細は、拙稿(寺沢 2008「小学校への英語教育導入に関する論争の分析」『言語情報科学』6号)の第5.1節「早期開始の言語習得上の利点」を参照されたい。

*3:「異文化への態度」育成や「会話への態度」育成など、英語力育成を強調していない立場でさえ、「英語」で活動することを前提としている場合がほとんどであることから、「なぜ、日本語や他の外国語ではなく、英語でやるのか」という疑義が示されることは少なくない。