こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

英語教育大論争(平泉渡部論争)をできるだけ短く要約する

英語教育大論争 (1975年)

英語教育大論争 (1975年)


1975年に平泉渉参議院議員(当時)と渡部昇一上智大学教授(当時)のあいだで、主に『諸君!』誌上で行われた英語教育に関する論争の要約。


なぜこんなことを、てらさわはやっているのか?相当ひまなのか、といぶかしむ方も多いかもしれないが、いま博論をまさに執筆中であり、その文章の断片(のうち、周辺的ゆえにとりあえずブログにアップしても問題ない部分)をここにコピペしています。(先日の加藤周一の記事(1個目2個目)もこういう意図で書きました)

            平泉渉 渡部昇一
英語教育の成果
に対する評価
成果なし
(顕在力だけでなく潜在力の面でも)
「潜在力」育成に注目すれば成果あり
外国語の必要性 必要とする人は少ない 必要とする人は少ない
     ↓    ↓
外国語教育と
義務教育の関係
だから義務教育の範疇外
(「知的訓練」の効果は不明であり
義務化の根拠にはならない)
だとしても、「知的訓練」という点で
義務教育化は妥当


この論争 ---以下、「平泉・渡部論争」--- は、決して短いものではない(論争を所収している上掲書はおよそ240ページある)。テーマも多岐にわたり、しばしば、周辺的な話にテーマが拡散していたりする(渡部昇一は特によく脱線する)。なので、話の本筋ではない(と考えられる)部分はできるかぎり捨象して、極力圧縮して述べたい。以下、同論争の概要を述べる。


この論争の発端となった「平泉試案」(1974年、自民党政務調査会に提出された「外国語教育の現状と改革の方向」という教育改革案)の構成は、当時の学校英語教育に対する認識を述べ、その非効率性を批判したうえで、原因を分析し、解決策を提示するというものである。2000字に満たない短い文章だが、各論点が簡潔に提示されており、平泉の主張の大半はこの「試案」に凝縮されていると言ってよい。この試案の内容を主軸に、それに対する渡部の反論・平泉の再反論を確認していきながら論争の構図を確認したい。

「平泉試案」の英語教育改革案

ではまず、試案の構成とは逆になるが、解決策として平泉が提案している英語教育改革案から見ていきたい。平泉は、「五、改革方向の試案」の項において、つぎのような7つの項目を掲げる。なお、以下の各引用文の見出しは平泉によるものではなく、てらさわが付したものである。(なお、1つ目と4つ目のものは、提案というより現状認識にあたるものだと考えられたのでそのような見出しにした)。

1 現状認識:英語科が提供する教育内容の普遍性・共通性を否定*1
2 提案:義務教育段階における外国語教育の内容・到達レベルの見直し*2
3 提案:高校英語の「事実上の選択教科」化*3
4 現状認識:数ある外国語から英語を選択することの妥当性*4
5 提案:高校英語の履修の基準、およびその高度化*5
6 提案:大学入試英語の廃止*6
7 提案:入試に代わる資格制度の創設*7


提案に注目すると、次のようにまとめられる。「全員」が到達すべき最低基準を大幅に引きげ(→上記の2)、同時に、一部の熱意ある「志望者」が到達すべきレベルを大幅に引きげる(→上記5)。これを実現する具体案として、高度な英語力を育成するための徹底的な訓練(ただし、従来の「訓詁学」的な英語の「知識」ではなく、高度な運用能力を想定)を受ける高校生とそうでない高校生を明確に分離する(→上記3)。そして、その当然の帰結として、大学入試から英語を外すべきだという提案が導かれる(→上記6)。


このように、平泉が、「高度な実用英語スキルを持った一部の人」(全国民の5%程度でよいと平泉は言う)と「ごく基礎的な知識を持ったそれ以外の人」という2段構えの目標設定を提案したのは、中高の英語教育に対する悲観的な現状認識による。すなわち、「卒業の翌日から、その『学習した』外国語は、ほとんど読めず、書けず、わから(p. 9)」ず、「その成果はまったくあがっていない」のだから、生徒全員に高度なレベルの英語学習を事実上「強制」すべきでない、という主張である。であった。この点は、この項の直後に明記されている。


1 [効果があがらない]理由は第一に学習意欲の欠如にある。わが国では外国語の能力のないことは事実としては全く不便を来さない。現実の社会では誰もそのような能力を求めていない。英語は単に高校進学、大学進学のために必要な、受験用の「必要悪」であるにすぎない。

2 第二の理由としては「受験英語」の程度が高すぎることである。一般生徒を対象として、現状の教育法をもって、現行の大学入試の程度にまで、「学力」を高めることは生徒に対してはなはだしい無理を強要することにほかならない。学習意欲はますます失われる。
(pp. 9-10、強調引用者)


つまり、受験のために過度に高度な英語が教えられているが、それは過重な負担であるため、効果があがらないというロジックである。この解決策として、「(高校の)英語必修」を廃止し、志望者に限定した徹底的な英語トレーニングが提案されたのである。ただし、この平泉のロジックはすこし唐突ではないだろうか。「従来の学校英語教育の成果は乏しい」という現状認識から、なぜ「志望者のみに絞る」という提案が出てくるのか、試案には詳しい解説はない。この両者をつなぐロジックは、後の論争において詳しく述べられる。議論を先取りするが、その点を確認しておこう。


つまり、私の試案にいう、「志望者に対してのみ」というのは、外国語学習にとっての、二つの中心的な問題に対して同時に解決を与えるものである。その一は学習者における熱意の存在であり、その二は、教授法における新兵器[=集中的トレーニング]の採用を可能にすることである。
(p.61)


「熱意」と「新兵器」つまり集中的なトレーニング、この2点がキーワードである。「必修化」をやめて志望者のみにすれば、熱意がある生徒が集まる、そして、熱意がある生徒ならば、集中的トレーニングにも耐えられるというロジックである。

憂国の情」に突き動かされた「平泉試案」

なお、平泉は、単に「英語教育の効率化」だけを念頭に置いていたわけではない。その究極的な目的は、「日本国民」と外国の間に「言葉の壁」を取り払い、(工業製品以外の面でも)日本が適切に評価されることだった。すなわち、平泉の根本には、「理解されない日本」というペシミスティックな外交認識があったのである。


日本と諸外国との間で、そして双方の国民大衆の広範な層の間で、十分なコミュニケーションをつくり出すためには、何をおいても言葉の壁をとり払うことに努力しなければならぬ。日本をとりまく眼には見えない「言葉の壁」が、どんな鎖国の禁令よりも、きびしく、高く、そして強固なものかということは、壁の何れの側にいる人にとつても、あまりにも明自なことがらである。・・・「戦争は人の心の中に生れる」という名文句で[ユネスコ憲章は]始まっている。しかし、世界の人々の心から、戦争に導く誤解と不信の念をとり去るための、国際間の文化の交流は、まずその第一歩として、人類を、バベルの塔の、あの呪いから解放するという困難で、地味な、しかし堅固な作業から始められねばならないのである。・・それは受験生の数を、法定の入学定員にまで圧縮するためのコンプレッサーではない。それは国民のなかに、一人でも多くの、外国語の活用者を生み出すためのものであるはずだ。(pp. 126-7)

こうした「憂国の情」は、元外交官であり国会議員(当時)である平泉の立ち位置を考えると納得がいくものである。外国に日本を「言葉で」きちんと説明できる人材を育成しなければならない、そのためには、教育は少数精鋭がよい、ということである。なお、少し脱線するが、この四半世紀後の船橋洋一による「英語第二公用語論」(2000年)では、平泉とほぼ同一の認識 ---憂国意識--- に基づきながらも、「少数精鋭」の論理を明確に否定し、国民すべてが外国に日本を説明可能な程度の英語運用能力を身につけるべきだと主張した。さらにその後2008年、水村美苗は『日本語が亡びるとき』のなかで、平泉と同様の認識を示し、かつ、平泉のように「少数精鋭」を提案している。その一方、水村は、「第二公用語論」の「総バイリンガル」的な提案を非効率だと批判している。平泉・渡部論争は、しばしば新しい論点は皆無であるかのように紹介されることがあるが(e.g. 渡辺武達『ジャパリッシュのすすめ』[朝日選書、1983])*8、「理解されない日本」というナショナリスティックな意識と、「全国民に英語教育を提供する」という問題が結びついた点では、当時にしてはきわめて新しい論点を提示していた。この論点は、それ以降の「第二公用語論」や水村美苗の英語教育改革論にもつながっていくという点で、この種の議論の端緒をなしていたのである。

渡部の反論

一方、渡部の反論だが、平泉試案の誤解に基づくものも多く*9、すべてを取り上げる価値は必ずしもない。ここでは、次の2点の反論に絞りたい*10。それは、(1) 学校英語教育に対する平泉の否定的評価(「成果はまったくあがっていない」)への反論、(2) 「外国語は義務教育の範疇外」という平泉の認識への反論である。


ひとつめの渡部の反論は、平泉の学校英語に対する否定的な評価は、学校英語教育の本来の機能を誤解しているためだという。渡部は、学校教育の主たる目的は、「潜在力」育成であり、すぐに実用に資するような「顕在力」でのみその成果を評価してはならないと反論する。ここでいう「潜在力」とは、「時間をかければ、大抵こみ入った英文でも正確に読め、和英辞書を引き引きでも、構造のしっかりした英文を書ける(pp. 91-2)」能力であり、一般的に言われるような「基礎力(基礎知識)」に相当するものといえよう。一方、「顕在力」には、さまざまなジャンルの文書を「気楽に読(p. 92)」むことができたり、「口頭によって外人とディスカッションする」ことができる能力が相当する。そして、「潜在力」を学校英語教育で養成しておけば、然るべき環境(英語圏での滞在など)に入っても、しばらくして「顕在力」が身に付くと述べ、「顕在力」を過度に強調する必要はないとした。なお、平泉は、このような潜在力/顕在力という2分法は一応認めた上で、「アメリカにさえ行けば、三カ月で普通の英語を話すことができるだろうという、そういう『潜在的能力』をもっている人というのも、まず確実に五\%に達していないといってよいと思う(p. 55)」と述べ、「潜在力」育成の面でも成果は乏しいと再反論している。


以上のように、渡部は学校英語教育の成果を肯定的に評価しているからこそ、ふたつめの反論 ---すなわち、外国語教育には、国民全員に義務的に課すだけの価値が十分にあるという主張--- につながる。たしかに、平泉のいうとおり、社会的必要性から見たら外国語能力は全国民に必要なものではない、しかし、「知的訓練」という観点から見たら国民に共通して提供すべき価値のあるものである、なぜなら「異質の言語で書かれた内容ある文章の文脈を、誤りなく追うことは極めて高い知力を要する。また逆に、そのような作業を続けることが著しく知力を増進せしめうる(p. 39)」からである。


以上が、渡部の反論の要点である。両者の議論を図式的にまとめると、冒頭の表の通りとなる。

*1:

外国語は教科としては社会科、理科のような国民生活上必要な「知識」と性質を異にする。また数学のように基本的な思考方式を訓練する知的訓練とも異なる。それは膨大な時間をかけて修得される暗記の記号体系であって、義務教育の対象とすることは本来むりである。(pp. 10-11)

*2:

 義務教育である中学の課程においては、むしろ「世界の言語と文化」というごとき教科を設け、ひろくアジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカの言語と文化とについての基本的な「常識」を授ける。同時に、実用上の知識として、英語を現在の中学一年修了程度まで、外国語の一つの「常識」として教授する。(この程度の知識ですら、現在の高校卒業生の大部分は身につけるに至っていない。)(p. 11)

*3:

 高校においては、国民子弟のほぼ全員がそこに進学し、事実上義務教育化している現状にかんがみ、外国語教育を行う課程とそうでないものとを分離する。(高校単位でもよい。)(p. 11)

*4:

 中等教育における外国語教育の対象を主として英語とすることは妥当である。(p. 11)

*5:

 高校の外国語学習課程は厳格に志望者に対してのみ課するものとし、毎日少なくとも二時間以上の訓練と、毎年少なくとも一カ月にわたる完全集中訓練とを行う。(p. 11)

*6:

 大学の入試には外国語を課さない。(p. 12)

*7:

 外国語能力に関する全国規模の能力検定制度を実施し、「技能士」の称号を設ける。(p. 12)

*8:渡辺武達は、「平泉・渡辺論争…は明治以来何回も繰り返し言われてきたことを、もう一度むし返したにすぎず、内容的にはこれまでの論争につけ加えるものはほとんどなかった(pp. 121-2)」と述べている。渡辺によるこの低い評価は、主に「実用/教養」論に注目していることに起因すると考えられるが、《国民教育》という観点から見れば、新しい論点はじゅうぶん含まれていたはずである。

*9:たとえば、渡部は、論争の最後まで、平泉の英語選択制という提案を、「選別」的な提案---つまり、「一部の生徒にしか学ばせない受けさせない」---と誤解していた。しかしながら、実際の平泉試案は、平泉自身が反論しているとおり、「生徒の五%だけに制限して、訓練すべきだとは、試案のどこでもいって(p. 61)」いない。平泉試案が提案しているのは、「厳格に志望者にのみ課すべきだというのであり、もしも、その結果、国民子弟の約五%が外国語の実際的能力をもつようなことになれば望ましい」というように、「志望」を前提にした選択制だった。渡部は、「選別」によって義務教育段階の英語教育はさらに過熱することを根拠にして「平泉案は亡国の案である(p. 87)」と批判を展開しているわけだが、前提を共有していない以上、検討に値する議論とはなっていない。

*10:ここで提示する2点にくわえて、「受験英語」をめぐる争点も先行研究ではしばしば取り上げられるが(「受験英語の害悪を問題視する平泉」 vs. 「その意義を強調する渡部」)、技術的な性格が強く、「概要」に収めるほどではないと判断したので割愛する。