こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

書評:R.フィリプソン著『言語帝国主義』(1992 OUP)

  • Robert Phillipson Linguistic Imperialism(Oxford University Press, 1992)

「英語」学の書

Linguistic Imperialism (Oxford Applied Linguistics)
本書を英語教育を専門とする友人に薦めたところ「言語政策は私の専門ではありませんので...」という反応を受けた。なるほど、本書は英語をめぐる諸現象をマクロ政治的な文脈に位置づけて論じており、その点ではたしかに言語「政策」の研究である。しかし同時に、本書を「言語政策」という狭い領域に限定してしまうことにも強烈な違和感を感じてしまう。なぜなら、本書の異議申し立ては、ほかでもなく、英語教育・応用言語学のそうした「矮小化」に向けられているからである。つまり、英語をめぐる諸問題を意図的に政治・経済・歴史・社会・文化から切り離すことで成立してきた知的・職業的伝統が、英語をめぐる言語支配において、重要な役割を果たしてきたことを明らかにしているのである。


したがって、本書の批判の矛先は、英語を「第三世界」に押しつけたイギリス・アメリカや、それらを無批判に受け入れた「英語礼賛イデオロギー」だけに向いているわけではない。英語教育・英語政策をめぐる種々の問題を、“英語”の言語学的な側面のみに矮小化してきた専門家集団(i.e. 応用言語学者、英語教師)にも向いているのである。つまり、「英語学」「英語教育学」が従来依拠してきた狭い視角を排し、英語/英語教育をより包括的に扱うという点で、この本はまさしく「英語」学の本なのであり、「英語教育」学の本なのである。


英語教育/言語政策における社会の「切断」

日本の英語教育では、本書およびフィリプソンの議論は「英語の帝国主義性」を暴き出し、批判的検討を加えたものとして紹介されることが多いと思う。もちろんそれは本書の重要なテーマのひとつであるのだが、それにのみ限定した読解も、本書の非常に大切な問題意識を取りこぼしてしまうと思う。


このたび本書を再読するにあたり、本書の一般的な受容のされ方――つまり、「英語帝国主義」を告発した先駆的文献――に対し、意識的に距離をとった視点からフィリプソンの議論を追ってみようと目論んだ。それは、英語教育/応用言語学の歴史的展開という観点である。戦後日本における「英語教育学」の知識システムを研究対象のひとつとする私にとって、「旧宗主国×旧植民地」が共同で築き上げた英語教育/応用言語学がどのように展開したかを理解することはきわめて重要なことに思えたからである。


フィリプソンは、英語教育/応用言語学が、旧植民地地域における言語帝国主義的な諸実践に、陰に陽に荷担してきたことを豊富な史料・データに基づいて明らかにしている。そこには、前述の「社会の切断」が重要な役割を果たしていたと述べている。

ESL (and CAL [=Center for Applied Linguistics] that was set up to nurture it) has tended to be dominated by linguistics rather than educationalists. The major influence on training, professional identity, and teaching methods has come from the dominant lingustics tradition of the time, structualism, and its kindred ally in psychology, behaviourisum. The mojor pedagogical experience drawn on was the intensive teaching of foreign languages to servise personnel in the war. The methodology elaborated here tended to be transferred uncritically to other learning situations. (p.162)


(引用者訳)「「第二言語としての英語教育」(そして、その母体となった「応用言語学センター」)は、教育学者よりも言語学が支配的である傾向があった。職業的な訓練やアイデンティティそして教授法に主として影響を与えていたのは、当時の支配的な言語学的伝統――すなわち、構造主義、そしてその「近親者」たる行動主義心理学――であった。教育上の経験として主に生かされたものは、戦時期の軍人に対する集中的外国語教授であった。この分野で発展した教授法が、他の学習場面にも無批判に移植される傾向があった。

周知のとおり、現代の「英語学」は(そして「言語学」は)、当該言語から社会的な要因を極力捨象することで成立してきた。大雑把にまとめてしまえば、言語現象をその固有の領域で理解しようとする企てである。しかし、そのような性向を持つ「知識」が、言語教育や言語政策として、種々の「社会的な要因」に再接続されたときには、必ずしも、言語学によって捨象された「差分」が元に戻されたわけではなかった。つまり、社会的要因の根底に存在するはずの、権力、不平等、そして支配/被支配の問題が適切に取り上げられなかったのである---こうした特徴は、旧植民地だけでなく、日本にも同様に認められる。


日本社会研究との接点

フィリプソンも序章で明示しているとおり、本書の射程とする地域は、第三世界、特に旧英語国植民地である。そして、その分析枠組みは、「英米=中心国(Center)」が「第三世界(Periphery)」を支配/搾取するというものである。こうした点を考えると、日本社会にしばしば見られるとされる「英語帝国主義」的な現象(たとえば、いわゆる「英語崇拝」「英会話ブーム」)との適合性は、あまりよくない。少なくとも、フィリプソンの理論をそのまま、日本社会の現象に適用するのは、理論的文脈を過剰に一般化しているものと言えよう。


もちろん日本を「第三世界」として(アナロジカルに?)解釈することは可能である。たしかに、戦後日本は、知的伝統としては英国に、政治経済的には米国に、「支配」されてきたと考えることはできる。しかし、その「支配」が、搾取を伴い、不平等を再生産してきたものであるかというと、かなり疑問ではないだろうか。


そう考えると、両者は根本的に異なる種類の議論に思えるのである。つまり、フィリプソンの議論は、いわば英語を媒介にした再生産論(既存の不平等構造を、英語教育/言語政策を通じて、維持・拡大する)であるのに対し、日本の「英語帝国主義論」は、現象の説明理論(人々の英語をめぐる意識や行動は、知的・政治的・経済的支配で説明できる)ではないだろうか。


英語教育の「学説史」として

上記のような疑念があったからこそ、本書を「日本の英語現象に直接示唆を与えるもの」として読むことから距離をとったのである。そして、英語教育関係者が社会の切断していくその過程を実証的に明らかにしているという視点で、本書を受容しようと考えたのである。前述したとおり、日本の英語教育にも、社会の切断は遍く見られるが、その背景を探る上での重要な参照点に本書はなり得ると考えられる。こうした試みは、英語教育および応用言語学という「知識」は、どのような特性を持つものか――言い換えれば、どのような点で「歪んだ」知識なのか――を理解することである。


なお、残念ながら、フィリプソンは How? に対しては非常に精緻な実証を行っている反面、Why?に対して説得的な回答を用意していないように見える。つまり、「なぜ社会的要因は適切に取り扱われなかったか」という点である。ここで、「なぜなら言語学的伝統がそうしたからだ」というような説明は循環しているように思われる。言語学的伝統がそのようなものであれ、それらを乗り越えるように知識形成が行われることは論理的には可能だからである。この点――つまり、なぜかくも言語学的伝統が強力だったのか――は、また別種の理論的枠組みに基づいた、詳細な分析が必要だろう。