こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「国語力の面で一歩リード」という言葉を覚えた


先日、「ツイッターをやっている人は国語力の面で一歩リード」のようなことをつぶやいている人がいた。国語の先生らしい。


その人の真意は、たしか、ツイッターのような字数が限られたメディアであっても、発信している人のほうが、発信していない人よりも国語の力がつく、なぜなら発信するには必ず他者を意識せざるをえないからだ、といったようなことだった。


実証性もなにもない話だし、あったとしても疑似相関の疑いが濃厚だ。そもそも「国語力」というのがなんなのか意味がわからないが、まあ、それは置いておくとして、この言葉がひときわ輝いているのは、「一歩リード」の部分だ。


一歩リード。


私が、国語力の面で一歩リードしたとき、必然的に、誰かが国語力の面で一歩遅れをとっていることになる。


端的に言えば、序列化の話である。


「国語」というのは、私たち「日本人」が古(いにしえ)から受け継いできたかけがえのない遺産であり、大変尊いものである。それと同時に、私たち「日本人」が幼い頃からつねに傍ら(かたわら)にあった、親しみぶかいものである。などと、国語愛にあふれた人々(つまり日本語ナショナリスト)は言い続けてきたのだが、これを念頭において、「一歩リード」に思いをはせると、たいへんな事態だということがわかる。


私たちが慣れ親しんできた遺産が、とつぜん、「一歩リードした/された」という価値空間に投げ込まれるのだから。あくまで比喩の次元にとどまっていた私たちの「遺産」は、とつぜん、その価値を値踏みされる、文字通りの「遺産」に変わるのだから。


遺産とは、先祖が子孫のために残しておいてくれたものではなかったか。


同じように、言語の力とは、他者のために使うものではなかったか。言葉が自由に操れる人なら、「語る言葉」を持たない人の声を代弁することができるのに。言葉をきちんと理解できる人は、「語る言葉を持たない人」の声をすくい取ることができるのに。それなのに、「一歩リードする」ための資源にされる「国語」は、もはや自分のものであって自分のものではない、ひどくよそよそしいものになり果ててしまったかのようだ。


というわけで、「国語力の面で一歩リード」という言葉を覚えた。