こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「英語教育と教養」日韓比較

以下の論文を読んだ。

  • 長谷川由美・吉田佳代 2011 「日本と韓国における大学生の英語学習意識・動機の比較研究」 『アジア英語研究』 13号、pp. 21-37.


日韓の大学生の英語教育に対する動機づけ・ビリーフについて調査した論文。


ビリーフ・動機づけの全体像の解明が同論文の趣旨なのだが、私の関心のひとつは英語教育の目的論なので、「教養英語」に対する意識への反応に勝手に(?)焦点化して読んだ。以下の記述は、私の恣意的な切り取りに基づくので、上記の論文の全体像、著者の問題関心をまったく反映していないのでご注意を。



今回、注目したのは以下の設問。

  • 質問6 英語を勉強するとより教養がつく


選択肢は4件法(1 非常にそう思う〜4 全くそう思わない)。


以下、その結果である。

回答平均値は、日本が 1.79であったのに対し、韓国は2.59であった。日本では、1番 と2番を選んだ学生が 139名 、韓国ではその約半数の 67名 しかおらず、日本人学生のほうが英語学習を教養の向上につながると考える傾向があるといえる。(p. 30)

平均値 1.79, 2.59 というのは直感的にわかりづらいが、4件法選択肢(1点---2点---3点---4点)の平均値とのことで、全員が「教養がつく」という意見に対し「非常にそう思う」と答えていれば最小値の1.00を、全員「全くそう思わない」と答えていれば最大値の4.00をとる。肯定的なほどスコアが低くなるのでわかりづらいが、逆転させて100点満点に換算すれば、日本が74点、韓国が47点になる。こう見ると、たしかにその差は大きいように感じる(正確に比較・判断するなら、標準偏差なども考慮に入れるべきだが、載っていないからしょうがない)。


韓国のほうが日本より、英語熱が高く英語と職業的成功が密接にリンクしているというよくきく伝聞にもとづけば、まあ、そんなものかと感じる結果である。つまり、韓国の英語学習のほうが、より功利主義的な価値が高い、というような。最初、これだけの差は、「教養」というワーディングの問題、つまり、日韓で「教養」に対する意味が違うということかとも思ったが、韓国語に詳しいひとに聞いてみたかぎり、それほど意味の差はないらしい。


ところで、この「教養」という言葉だが、それほど易しい言葉だろうか?


自分自身、「教養」に関する先行研究をたくさん読んできて、ようやく最近その意味がわかってきた ---いや、正確に言うなら、様々な人々が様々な用法で「教養」を使っていて、必ずしも意識的に区別しているわけではないということがわかってきた。それくらい複雑なものであるので、本研究の回答者である大学生がどれくらい確固たる定義を持っていたかというとたぶんそれほどないだろう。周囲の大学生に聞いても、具体的には答えられない気がする。


ということは、上の設問は、「教養」という語のイメージと英語学習の近接度を測っているのではないだろうか・・・などとちょっとうがった解釈をした次第。


※念のため言うと、これは同論文に対する批判ではない。そもそも同論文の著者は「教養志向を測定している」とは宣言していない。ただ、設問が「真に」測っているものは何かを考えたいと思っただけ。


教育言説の歴史社会学
日本では、「英語教育は教養のため」というのはかなり使い古されたフレーズで、同時に、かなり説得力をもって受け入れられているものであるだろう。であれば、「教養」というのが何を意味しているのかよくわかっていなくても、「英語教育は教養のため」という意識を形成することは十分あり得る。この手の言説が流通すればするほど、「教養」の内実がブラックボックスなままで、説得力が増していくだろう。このような、よく意味がわからない言語使用にもかかわらず、コミュニケーションが成立してしまう事態を、たとえば広田照幸氏は「教育言説」として分析してみせたわけだが、「教養のための英語教育」という表現も、じゅうぶん「教育言説」としての機能を果たしている。