こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

読書ログ:金谷武洋著『日本語は亡びない』

書名から一目瞭然だが、ベストセラーである水村美苗日本語が亡びるとき』を意識した本である。
というか、本書の記述のほとんどは、水村本への批判にあてられている。


日本語は亡びない (ちくま新書)

日本語は亡びない (ちくま新書)


水村本は一般への浸透度が比較的高いにもかかわらず、言語教育および社会言語学上(悪い意味で)無視できない記述を含んでいるので、きちんと検討する必要がある文献である。「ちくま新書」という大衆性が高い媒体で、金谷氏がどう批判しているのかおさえておきたいと思ったのが本書を手にした動機である。


的確な要約が本のカバー折り返し部分にあったので、写経。

昨今、日本語の存亡を憂う言説で溢れている。しかし、本当に日本語は亡びるのか?外国語としての日本語は活気に溢れ、学習者は約300万人に及ぶほど、未曾有の日本語人気に沸いている。インターネット時代の英語の圧倒的優位が叫ばれているが、庶民の間では現在も将来も、日本人の生活語は日本語だけに留まるであろう。(後略、強調引用者)


「庶民の間では現在も将来も、日本人の生活語は日本語だけに留まる」という結論は納得がいく。納得がいくのだが、水村の「日本語が亡びる」が意図するのは、大ざっぱに言えば「高級な文明」を担う言語としての日本語にはもう活力がなくなりつつあるという危機意識なので、「日本語話者がいなくなる」と言っているわけではない。つまり、「亡びる」はレトリックである。したがって、金谷氏の批判は「ネタにマジレス」ならぬ、「レトリックにマジレス」である。


それはともかく、彼の批判は「日本語には底力がある。そんなに簡単に亡びない」という一点に集約される(それに関して、日本語学習ブームや日本語の言語学的特性、ある日本語作家のテクスト分析が「エビデンス」として提示されている)。


水村氏の日本語論には、「亡びないよ!」なんてことよりも、もっと批判すべき部分があると思うのだが(※以下参照)、金谷氏のオチは以下のような日本語愛に溢れた「国語/日本語ナショナリズム」なので、それを期待するのも酷なのかもしれない。

敬語を使い、俳句や相撲を愛し、日本庭園で癒され、宮部みゆき推理小説中島みゆきの歌に感動する日本人は、その視点を「地上」に持つ庶民である。空を見ても、脚はしっかり地べたに着いている。そして、その「地上の視点」を何世紀にもわたって支えてきたものこそ、共生と共存の思想をその文構造に具えている日本語なのだ。
(p. 175)

※【オマケ】「水村本、むしろここ批判しとけよ」的な部分

国語思想本を読み替え

イ・ヨンスク著『国語という思想』をかなり丹念に読みこむ記述が続くが、イ本のコアである国語のイデオロギー性のはなしはスルーして、「強い国語を創出するにはどうすればいいか」という話に読み替えてしまっている。

ベネディクト・アンダーソンへのひどい言いがかり

同様に、アンダーソンの「想像の共同体」論も、多くのページを割いて精緻に検討しているが、やはり我田引水な感が強い。特に、「アンダーソンは英語母語話者だから『普遍語』を十分に考察できなかった」はひどい言いがかり。たとえば以下の記事参照。

「戦後の平等な英語教育」観について

水村氏は、基本的に「戦後日本社会=平等志向が強い」という強い仮定を置いて、英語教育論を展開しているが、その認識には根拠が薄い。拙ブログおよび拙稿で批判している。