こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「現場経験」「現場」という言葉の抑圧性

とても(!)誤解してほしくない点のためあらかじめ強調しておきます。以下の記事は、「現場経験だけでなく理論も大事だ」とか「学者と現場の教員は互いに協調すべきだ」という意図はまったくありません*1。むしろ、純粋に「現場だけ」にいる方々は、「現場の声を代弁したい」と称する大学教員や役人の「現場観」をもっと疑う相対化するべきだ、という意図です


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以前から、「現場出身の大学教員」や「現場出身の教科調査官」が、「現場も知らずに教育を語るな」と発言するのを目にすることがたまにあります。


「現場」で実務にあたる方々 ――とくに学者や役人の「ご高説」に辟易している方々―― には、小気味のよい発言かもしれません。


しかし、ちょっと立ち止まって考えてほしいと思うことがあります。それは、この文脈で発せられる「現場/現場経験」という言葉が、いま現在現場で実務にあたっている人々を本当に代弁しているのか、ということです。


もちろん、「現場」というのは実務者をエンパワメントする重要なスローガンです。これは教育現場に限りません。医療でも福祉でも社会運動でもあらゆる実務領域で「現場」という言葉のちからは重要です。


しかし、いつでもエンパワメントの機能を果たすかといえばそんなことはありません。場合によっては抑圧的にすらなります。たとえば冒頭に掲げた「現場出身の大学教員」や「現場出身の教科調査官」の例がわかりやすいでしょう。


「現場も知らない者が教育を語るな」と教育研究者役人が語るとき、「私は理論だけでなく現場も知っている」ことを示しているだけで、必ずしも「現場の声の復権」というそもそものエンパワメントの機能を果たしていないことはしばしばあります。さらに輪をかけて不幸なのは、「本人は現場の声の代弁をしているつもり」であったりする場合です。


「私は理論だけでなく現場も知っている」という用法の真の機能が、「自分の主張はバランスがとれていて、より正しい」ことを表示することである以上、これはもはや実務者のエンパワメントではなく、現場の多様性を抑圧する危険性さえあります。


なぜなら、「主張の正しさ」を正当化するために、主張そのものの妥当性ではなく、主張内容から見たら周辺的な「経験の有無」を持ちだしているからです。当然といえば当然ですが、「現場」経験のある教授や役人が、個々の教員が「現場」で日々直面する苦悩を自動的に理解できるわけではありません。極端な例ですが、「専任教員としては私立進学校での勤務経験しかない『現職経験のある大学教員』」や、「定時制や『へき地』指定校での勤務経験のない公立校出身の教科調査官」をイメージしてみれば、このズレはわかりやすいでしょう。


しかし、自動的に理解できない代わりに、人間には想像力があります。「現場」に対する想像力は、たしかに現場経験があると持ちやすいのも事実ですが、「私には現場経験があるんだから云々」と開き直った瞬間、その想像力はたちどころに死にます。


結論です。パワーを持った人は、「現場」「現場経験」というのをマジックワードにせず、絶えず自己相対化をしていく必要がある、というのが一点。そして、パワーを持った人が「現場経験」の重要性を語っていたとしても、必ずしも現場の多様性を尊重してくれる結果になるわけではない点に注意、というのがもう一点です。

*1:「現場」経験のない大学教員を総じて「学問寄り」だと見なす「現場の人」も多いかもしれませんが、じっさいのところ、教育研究者の「現場志向」は実に多様です。ただ、まあ、英語教育研究はちょっと異質かもしれませんが。