こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

「統合」(integrate) というマジックワード

最近、それぞれ異なる場面で、厄介なマジックワードに出会うことがあった。この厄介さをメモっておきたい。

それは「統合」である。これは日本語だけの問題でなく、英語で integration/synthesis などと言っても厄介さは解決しない。

あるとき、混合研究法の教科書・概説書を何冊か読んでいて、どうしても理解が難しかったのが「量的研究と質的研究を統合する」という説明だった。

また別の機会に、CLIL (Content and Language Integrated Learning: 内容言語統合型学習) の教科書を読んでいて、教科学習と語学学習を統合的に学ぶ(統合できていなければCLILではない)という説明もよくわからなかった。

「統合」の厄介さ

「統合」という語が厄介なのは、以下の2つの点が合わせ技となっているためだろうと思う(逆に、どちらか片方だけであれば問題は小さいだろう)。


1. 話者の態度をあまり反映しない、中立的な分析概念のように聞こえる
2. しかし、ほぼ常にポジティブな意味を帯びている


もし単語が、「正義」とか「適切さ」とか「品格」とか「本質」*1などのような、ポジティブな意味を含んでいることが自明な語の場合、書き手はきちんと定義しようという気になるだろうし、読み手は定義は何か注意して読もうという警戒感がわく。

一方で、統合(integrate)は、もともとは中立的な語でありながら、実際に使われる場面ではほぼ常にポジティブな意味で使われる。


たとえば、次のような表現は実は何も言っていないに等しいのだが、けっこう説得的に響く。

混合研究法は、質的研究と量的研究を単に並列したものではない。統合することが必要である。

とか

教科学習と語学学習を同時に学習させればCLILであるという誤解があるが、両者は適切に統合されていなくてはならない

とか。

これらのレトリックにおいて、「統合」は明らかに良い意味で使われている。ここではむしろ、「並列」「同時に学習」こそが、価値観を反映していないという意味で中立的な分析概念になってしまっているのが皮肉めいている。

分析概念を否定して、マジックワードのほうを称揚しているわけだから、議論が意味不明になるのも無理はない。


「PとQを単に並列するだけではだめだ。統合しなければならない」と言いつつ、「統合とは、PとQが適切な仕方で並列されている状態だ」というのでは、トートロジーであるが、「統合」という語は中立的な響きがあるため、トートロジーであることが自覚しにくいという厄介さがある。


対策としては「統合をきちんと定義する」が正統な方法だろうが、いっそ「統合」という言葉を使用禁止にするのがよいと思う(分析的言葉狩りのすすめ)。


*1:ただし「本質」という語を分析概念だと思って使う人がたまにいるので、これはまた別の厄介さがある。例、何が本質なのかを説明せずに、「◯◯はこの問題の本質ではない」などとドヤる人。