「英霊に感謝」という謎感謝で思い出したけど、「厳しい教育財政の中、現場で子どもたちのために頑張ってくれている先生方に感謝」という感謝ポリティクスは、ここ最近の小学校英語の教育言説を読み解く上で結構重要なんじゃないかと思っている。
私たちは、感謝の言葉とは純粋な感情の発露であるみたいに子供のころは教わるけれど、大人になるとそれはフィクションだと学んでいく。
「~に感謝したい」という言葉は他人に影響力を与えるために行使されるのが普通。
「ありがとう」の機能なんて感謝以外にいくらでもあって、たとえば以下のような「他者を動かす」ためのもの。
- 社員の労をねぎらう
- 発破をかける
- ややこしい物事をスムーズに進ませる
- ありがとうが言える良い感じの人だと演出する
- 道徳の授業(マナー研修でも可)でいい評価を得る
- トイレを綺麗に使わせる
ただ、「ありがとう」をTPOもわきまえずにやり過ぎると、自分自身が「この感謝は純粋な感情の発露以外の何物でもない」という感謝教に洗脳されてしまうかもしれない。
小学校英語教育に顕著だけど、ここ数年、「現場の先生・ALT・外部人材の創意工夫や献身的な努力に感謝したい」言説、ものすごく増えている気がする。
20年前、総合学習で英語活動が始まった時はこんなに「感謝」話法が蔓延してなかった気がする(実証可能ですね。誰か卒論修論にどうですか?)
総合学習の英語活動が典型的だけど、取り組みたい人が挑戦する実践の場合、現場の教師の創意工夫をリスペクトこそすれ感謝はしないよね。必修=強制になったからこそ「人を動かす」ために感謝が必要とされる。
この手の美しい言葉が実際に何を覆い隠しているのか「感謝教」の人には敏感になってほしいものだ。