https://readlangpolicy.jimdosite.com/
「言語教育政策論文オンライン読書会」を昨年4月に始めて一年たちました。
22年度も継続する予定です。
参加メンバーは随時募集中です。(毎回の参加義務はありません。必要な連絡はすべてSlackで行いますが、情報収集として Slack への参加だけでも構いません)
趣旨・日程・参加方法などは上記のサイトを御覧ください。
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先日のオンライン読書会で、日本の外国人受け入れ政策に関する論文を読んだ。
論文の概要は省略するが、方法論的にいろいろ考えるところがある論文だったので以下にメモする。
気になったのは、本論文が、言語政策関係の特定の施策(orプログラム)を、思想史的な傍証を使って説明するというアプローチ(というかレトリック?)を随所に使っている点である。日本の外国人労働者受け入れ政策の実際を、Japanese vs. kokugo を始めとする国語思想、さらには、日本人の特性・文化をユニークだとする日本文化論で説明している。
著者が図式化しているわけではないのだが1、次のように単純化できるだろう。
このような図式化は、実は、「言語政策研究あるある」である。 たとえば、「日本の英語思想」(The Idea of English in Japan) という、有名な英語教育政策の本は、書名にも現れているとおり、典型的な「思想史→英語教育政策」型説明を採用している。これに限らず、こうした論文は、言語政策研究分野で非常によく見る(日本の言語政策だけではなく、他国の政策を分析しているものでもよく見る)
問題は、このようなアプローチ・説明方法は、政策科学ではおそらくあまり評価されないと思われることである2。 根本的な理由としては、「思想史的バックグラウンドなんて曖昧な要因だったら説明にならんでしょ」ということだと思うが、言語政策に関連付けてもう少し細かく言うと次のような点が指摘できると思う。
第一に、因果関係の曖昧さ。思想史という比較的遠い過去の要因から、現在をきれいに説明することは、一般的にかなり困難である。いきおい、因果関係に対する考え方を緩やかにせざるを得なくなるが、そうすると、「○○が影響を与えた」とも言えるし「○○は影響を与えなかった」とも言えるようになってしまう。最悪、「にわか知識の評論家の雑な文明批評」になりかねない。
第二に、言語思想史の「生産者」の社会階層的背景。思想史は、intellectual history と訳されることもあるように、基本的には、知識人層が考えていたことである。それが政策の現場に下りてくることは十分にあり得る話であるが、同時に、「下りてこなかったかも」とか「現場が拒絶したかも」とも言えるわけで、結局、現場サイドの動きを見ないとなんとも言えない。
第三に、第二に関連するが、そもそも現場サイドの動き――つまり、政策過程や実施過程――を見て物事が説明できるのであれば、思想史的な説明は冗長なのではないかという点。
実際、今回の読書会でも日本語教育政策の専門の方から指摘があったが、外国人受け入れ政策(の困難さ)は、省庁間の駆け引きや、施策の立案・実行の難しさといった政策過程で大いに説明できるらしい(たしかに納得行く話ではある)。であれば、国語思想や日本文化論のような曖昧な説明に大いに依拠する必要はないのではないか3。
言語政策研究で思想史的説明が重宝される原因のひとつに、現地語ができない研究者という頭が痛い問題があると思う。
思想史は、英語化されていることが多い。実際、国語思想も日本文化論も、日本研究 (Japanese studies )の研究者による多大な努力のおかげで、重要な文献が英訳されていたり、あるいは、最初から英語で書かれたりしている。
一方で、政策過程分析に必要な資料は、英語化される度合いは小さい(たとえば、日本の教育委員会制度や官僚制度の成り立ちを丁寧に説明している英語文献を読んだことがあるだろうか?)。とりわけ、リアルタイムに起きている改革の政策過程や、一次資料(議事録など)は、日本語でアクセスせざるを得ない。
その結果、日本語が読めない研究者は、どうしても思想史的な説明図式に頼らざるをえなくなるのではないか。
言語政策研究では、思想史的な説明図式が一部で流行っている一方で、その守備範囲と利点・弱点があまり議論されていないように思われる。本来は互いにかなり異なるアプローチである思想史的説明も政策過程分析も現場研究(エスノグラフィーなど)も、同じ「事例研究」というゴミ箱カテゴリに放り込まれて、奇妙な共存を許している現状があるように思う。
しかし、ここで書いた通り、思想史的説明は(トートロジーではあるが)言語思想史を明らかにするのには最適であるものの、現代の具体的施策を説明するには、かなりの論理的飛躍(あるいは跳躍)を含んでいる。したがって、きちんとその射程・利点弱点を整理しておいたほうがいいように思う。
『英語教育のエビデンス』の第5章で、私は、事例研究についてある程度ページを割いて書きました。
要は、これまでの「教室指導フォーカスの実証研究」は、なんとなーく「効果的な指導のエビデンスを得るため」という目標をもとに行われてきたものが多いけれど、種々の制約ゆえに、ほとんどが「エビデンス」を論じる水準に行かない。だから、そもそもの発想の転換が必要。とくに、事例研究として位置づけし直したほうがいいんじゃないですか、という提案。
一方、この「事例研究」という言葉はかなりの曲者で、ゴミ箱カテゴリのように使われてしまっています。私は同書のなかできちんと定義して使っているつもりですが、一方で、「外的妥当性・内的妥当性は乏しくても、研究者が(および研究者の卵が)自分の "身の丈にあわせて" 研究対象を選んで取り組んだ研究」みたいな緩い使われ方をしているのをよく聞きました。とくにエビデンス本への反応としてそういうものが何度かありました。
私は、同書の中で事例研究を以下のように定義しました。
ここでの事例研究とは、理論的な貢献度の高い事例に注目し、その事例を総合的に調査・分析する研究です(ジョージ・ベネット, 2013)。 (p. 90)
この定義、今あらためて読むと、ややミスリーディングなところもあったかなあと反省しています。
英語教育研究での、ゆるふわメソドロジー論議では、上記定義の後半、つまり、「事例を総合的に調査・分析する研究」という部分に注目があつまりがちな気がしますが、重要なのは前半です。つまり、「理論的な貢献度の高い事例に注目」の部分。
要するに、どういう理屈で事例をピックアップしたかが重要なのです。
この点を図式化すると以下のとおりです。
上記のうち、私の定義が意図していたのは、A. です。といっても、これは私の独自定義ではなく、おそらく多くの"学術的"事例研究を行っている研究者が同意してくれると思います。この研究は、いわゆる狭義の一般化は志向していませんが、理論を媒介物にすることで、他の研究者とのコミュニケーション可能性を担保するわけです。平たくいえば、他の研究者にも理論的示唆を与える、という感じでしょうか。つまり、「受益者が他者」という意味で、狭義の「研究」と言えるわけです。
また、B1は、研究者が「ソトの人間」として記述に徹するものもそうですが、研究者自身が実務家として問題解決に取り組むアクションリサーチも、このカテゴリに入るでしょう。こちらも、応用志向の分野にとっては貴重な研究だと思います。この研究は、たとえ学術的貢献が微妙だったとしても、似たような問題が生じた場合、確実に役立ちます。ここから明らかな通り、これも受益者は他者です。
一方、B2. は、いわゆる(いわゆらない?)「やってみました」研究*1です。 「私の生徒からデータをとってみました」「私の教室で指導法を試してみました」「私の知り合いに聞いてみました」のようなもの。なぜその生徒・教室・知人を対象として選んだかといえば、アクセスしやすかったから以外に理由がない。 この手の研究は、ふつう、学術的にも実務的にも評価されないでしょう。なぜなら、この場合、受益者がいないからです。強いて言えば、「受益者=自分だけ」でしょうか。たとえば、「自分の学位取得のため」とか「自分の成長のため」とか。
以上を総合して、具体的な提案をするとすれば、3つの事例研究――つまり、理論的事例研究、問題解決型事例研究、その他――のうち、最初の2つだけを事例研究として認めるのが、適切だと思います。で、「その他」には、別の名前を与える。
その他のうち、「自分の学位取得のための事例研究」は論外です(「事例」にされる側の気持ちに思いを馳せてみてください)。
一方、「自分の成長のための事例研究」は、「教師の成長」がキラキラワードとして受け入れられている昨今、位置づけがかなり微妙です。ただ、個人的には、教師の成長を、「人を対象にした」「エンピリカルな研究」が担う必要があるのかはかなり疑問です。教師の成長は、戦前から、狭義の「研究」とは別のチャンネルで、実践が蓄積されてきたのではないでしょうか。
念のため注記しておくと、ここでいう「事例を選んだ理屈」とは、建前としてどういう理屈を事後的に述べられたかが重要です。 たとえば、研究スタート時には、「自分の教室だから選んだ」以外に理由はなかったのだけど、研究を通じて、理論や問題解決といった、「他者に開かれた」観点と接続ができた場合は、この限りではありません。(ただし、単なるこじつけになりかねないので、「最初は自分の都合で選んでOK!」と開き直り過ぎるのも考えものです)。
本書の姉妹編という噂がある『はじめての英語教育研究』でも、「事例研究」という言葉を重要な研究分類タームとして使っていますが、上記の私の理解と異なるところがあります。 しばしば、「質的研究の一部としての事例研究」みたいな整理で理解されがちだけれど、量的事例研究というアプローチも普通にあるので、ここは腑分けしないと、質的研究コミュニティにとっても不幸が多いように思います。
*1:追記。そういえば「やっこう」研究という言葉があることを思い出しました。「やってみたら、こうなった」の略。
本日参加したPrasad (2017) 読書会のレジュメ(要約)、せっかくなのでブログにもアップします。Markdownでレジュメを作っておくと、コピペで記事化できるので、みんなも markdown でレジュメを書こう!
Prasad (2017) 読書会 2022-03-05
Outline
historical materialism is the preferred term to Marxism because Marxism has too many unfortunate connotations with a dogmatic orthodoxy and with the more dysfunctional aspects of Soviet-style communism. (p.129).
メソッドを制約しない、抽象度の高い文字通りの「理論」
In general, historical materialism is also less averse to using quantitative techniques and collecting statistical data, provided (p.129).
疎外 alienation:「人は自分の労働や能力を賃金市場で売買される商品として経験するのである」、物神崇拝 Fetishism of commodities.
矛盾 contradiction:
マクロ歴史社会学
looks at key actors, elite control strategies, societal coalitions, and institutional processes from a materialist standpoint of conflict, interests, and domination. Also referred to as macro-historical sociology
質的メソッドとの(非)接続
This particular subtradition of historical materialism differs quite sharply from the ethnographic research styles that are typically associated with qualitative work. The scope of the research is much more ambitious, and the approach longitudinal and rigorously empirical in its search for recorded “facts” and documentary evidence. In sum, such work is predominantly influenced by the historical method. (p. 149)
ソトからの批判(史的唯物論者がディフェンスを強いられる点)
内側からの批判
What the Frankfurt School really did was to privilege the more subjective elements of Marx’s writings at the expense (some might argue) of his more materialist concerns. (p.157).
Within the critical theory tradition, ideology refers to all systematically distorted accounts of reality (Habermas, 1972) that both conceal and legitimate social asymmetries and injustices. Critical theory aims at piercing these ideological veils in all walks of life—in government, public policy, law, science, education, managerial practices, media, entertainment, and even the family itself. Its ultimate goal is an enhanced public awareness of the sources of domination and a subversion of ideological forces that will jointly initiate fundamental changes in consciousness and power (Held, 1980). (pp.157-158).
Instrumental reason has much in common with the Marxian concept of commodity fetishism but identifies the sources of this condition in the philosophy of the Enlightenment rather than in capitalist modes of production. (p.162)
What was formerly a two-dimensional world of subject and object is increasingly being turned into a one-dimensional one where only the object prevails. (p.163).
When researchers do engage in fieldwork, they tend to be influenced mostly by the latter-day critical theory of Habermas (i.e., the theory of communicative action) and are less interested in the social psychology of domination proposed by the early Frankfurt School. (p.167).
2つのアプローチ:批判的解釈学、そして、批判的エスノグラフィー(例、生活世界の植民地化の現実をあぶりだす)
Research in the critical theory tradition tends to follow one of two paths—engaging with texts and archival material, or studying ongoing situations and events. Critical researchers following the first path are usually inspired by Habermas and Ricoeur and are most closely aligned with the tradition of critical hermeneutics. Those electing to observe ongoing events are best described as critical ethnographers. These individuals broadly follow the contours of classical ethnography but bring a distinctly critical edge in their conceptualizations of the research problem and in their formulation of research questions. (p.168).
リッツァ:マクドナルド化
個人の理性・自律性、近代的合理的主体の偏重 (←→ 前期フランクフルト学派の主題)
Although Habermas has indeed been justifiably faulted for his valorization of modernity (and hence the rational subject), critical theorists like Adorno, Benjamin, and Marcuse are best known for their disenchantment with modernity and for their neo-Weberian anxieties about the over-rationalization of society. (p.175).
(ハーバーマスの)合理的主体への過度の信頼→意識 consciousness に対するマルクス的愛着(ポスト構造主義から)
ヨーロッパ中心主義
新しい流れ
http://www.kate-j.sakura.ne.jp/
第21回英語教育「なんでだろう?」座談会
LEP読書会 2022-02-19で以下の論文を読んだ。
下記、読書ログ。
Kamwangamalu (2011) point out that for developing countries with weak educational infrastructures and a shortage of qualified English-speaking teachers, introducing PELT in public schooling requires a massive investment for what are often only minimal returns. (p.48)
→ 発展途上国だとより鮮明になるが、財政が厳しい国であればどこでも同じか。
In Mexico, for example, in many states, recently-hired primary school English teachers are on a different, non-union contract and pay scale than the “regular” unionized classroom teachers. Their salaries are much lower (typically 33-50% or less) than what unionized teachers make and do not include the same benefits or job security through tenure. (p.46)
the restructuring of teacher tenure system (facilitated by the arrest on corruption charges of the president of the national teacher union, who had sponsored their own opposition candidate in the previous election) (p.51)
ネオリベラリズムと言語教育改革は、どちらも現在進行系で共時的に起きている現象である。近年の言語政策研究(とくに英語圏のそれ)では、両者の連関がしきりに指摘されており、一部ではまるでゆるぎない事実のように扱われている。一方で、当然ながら両者は別の現象であるので、両者をつなぐ理論的橋渡しが、いくつか「発明」されている。それらは、本論文でも展開されているように、
というものである。一方で、上記の矢印は、相当のジャンプがあり、各キー概念(人的資本理論・言語資本・商品化)を狭義に理解するならば 理論的飛躍と判断されるリスクがあると思う。
本文中の一例:Human capital theory の拡大解釈?
Formulated several decades ago by Schultz (1971), the theory contends that economic growth depends on the health and education of the labor force—human capital—in addition to improvements in a country’s physical capital, such as roads, dams, and factories. From this perspective, education not only increases productivity by teaching young people new skills but also promotes development through the inculcation of so-called modern attitudes about work, education, fertility, and health. (引用部分, p.50)