こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

言語経済学と言語能力の商品化:日本における英語力の賃金上昇効果を中心に

※以下は,こちらの原稿の下書きです。

1. はじめに

本稿では、言語の商品化を構成する諸現象のうち、言語能力に注目する。つまり、「言語能力の商品化」を検討する。

言語の商品化と一口に言っても多様な現象を含む。ただ、諸現象が必ずしも厳密に区別されているとは言い難い。たとえば、著名な言語学者であるデボラ・キャメロンは『オックスフォード英語史ハンドブック』の中で、「言語の商品化」という、本書の主題そのもののをテーマとした章を執筆しているが (Cameron 2012)、「御大の風格」を感じさせるいささか流麗に過ぎる論述であり、諸概念を明確に区別した厳密な枠組みに基づいて議論されているようには見えない。たとえば、どのようなものを「商品」と見なすかは、財の性質が場合によって大きく変わる以上、明確に区別が必要であろう。たとえば、次のような区別は最低でも必要であると考えられる。

  • ① 言語サービスの商品化
  • ② 言語教育の商品化
  • ③ 言語能力の商品化

第一の例は英文校閲や翻訳、第二の例は教材や教育プログラムの売買である。これらは金銭の支払いを伴うのが普通なのでまさに商品のイメージと合致している。

一方、「商品」という概念を理論的に拡張する必要があるのが、第三の言語能力である。例えば、英語力を持った就労者Pと英語力を持たない就労者Qがいて、PのほうがQより英語ができるゆえに仕事の生産性が高いという状況があったとする。この時、Pは英語力という「商品」を労働市場で売ることで、Qよりも多くの就労上の利益(たとえば高賃金や「良い仕事」へのアクセス)を得ることができたことになる。

「商品」概念をこのように拡張するのは、経済学概念の逸脱的使用などではまったくない。むしろ、後述するように、このような理解は、経済学の重要な理論の一つである人的資本理論の根幹をなしている。さらに言えば、経済学的に見てもユニークな論点を含むのが「商品としての言語能力」であるとも言える。なぜなら、言語経済学者フランソワ・グランも指摘する通り (Grin 2003: 23-24)、第1・第2の論点は、サービスや製品の取引という通常の経済学の枠組みで考察可能であり、その点でユニークさはないからである。一方、言語能力は、製品・サービスと性格が異なるのは当然として1 、典型的な人的資本(例えば、職業教育)とも異質と考えられる。例えば、第2言語能力は、努力によって身につけられる人的資本でありながら、「生まれ」の段階ですでに所有を運命づけられている「母語話者」という存在もある。このようなユニークさの点で、理論的貢献度のより高い分野であると考えられる。

言語能力の商品化は、他の2つの商品化と密接な相互作用がある。X語の言語サービスに対する需要が増えるほど、(L1であれL2であれ)X語ができる人の労働市場での需要は高まる。同様に、X語教育の需要が増えても、X語話者の需要は高まる。さらに、逆の因果も存在する。X語能力が労働市場で有利だということが周知されれば、X語学習・X語教育の需要は高まる。 実際、以下の事例で見ていく通り、「言語力の商品化」言説を流通させているのは労働市場そのものをビジネスの対象としている人々(例、就職情報産業)にはとどまらない。教育関係者もこの言説の重要な流通者だからである。以上の議論から明らかなとおり、言語能力の商品化は、言語の商品化をめぐる他の様々な現象と密接に関連しており、言語教育や社会における言語のあり方を考えるうえで重要性が大きいテーマだと言える。

本稿は、以下より、日本に焦点を絞り、「言語能力の商品化」の代表である「英語力の商品化」を検討していく。構成は次のとおりである。第2節で、「英語力の商品化」言説の現状を確認する。第3節で、「英語力の商品化」言説に密輸入されている前提を、経済学のことばに置き換えることによって、浮き彫りにする。その上で、経済学的なモデルに基いて実証分析を行う。第4節で、その結果を元に、「言語能力の商品化」研究の今後の展望を論じる。

2. 「英語力の商品化」言説

本節では、日本において、英語力がいかに商品として概念化されているか、近年の英語言説を見ていきながら検討する。結論的に述べれば、英語力の商品化言説は「英語を身につけてキャリアアップすべし」といった類の言説である。キャリアアップの中身に注目すると、「英語力上昇 → 賃金向上」と「英語力上昇 → 就業機会の向上」という2つのパターンに分けられる。 ただし、前者のほうがより「商品化」のイメージに近いだろう。なぜなら、自分の英語力が労働市場を経由することで賃金という金銭的価値に変換されるからである。したがって、本稿では、英語力と賃金の関係について中心に検討していく(英語力と就業機会の関係については、寺沢 (2015: 11章)で検討しているので参照されたい)。

2.1. ビジネス言説としての「商品としての英語力」

労働市場が前提である以上、「英語力の商品化」言説の主たる舞台がビジネス界、とくに就職・転職情報産業であることは不思議ではない。実際、ビジネス書やビジネス誌には、「英語力を磨いてキャリアアップ」といった言説が溢れている。 たとえば、『プレジデントファミリー』の2008年5月号には、「英語が喋れると、年収が高くなるのか?」と題した特集がある。概要を引用しよう。

このたび編集部では、「英語力と年収」の関係についてアンケート調査を行った。調査対象は英語ができ、かつ仕事をしている全国の30代、40代の男女。…[TOEIC760点以上]TOEFL540点以上、英語検定準一級以上のいずれかを持つ人にアンケートを実施した。すると「英語ができる人の年収は、同年代の平均的な年収よりも高い」という結果が出たのである。平均年収との差、なんと209.4万円!(プレジデントファミリー 2008 p. 37)

実は調査方法自体に多々問題点があるのだが2 、ここでは「英語力で収入に大きな差がつく」という認識を大前提にしている点に注目したい。こうした認識に基づくからこそ、「英語力という商品に磨きをかけて、労働市場で戦おう」という扇情的なメッセージが意味を成すのである。 上記のような「英語力で収入が増える」という話はビジネス言説では頻繁に見かける。そのいくつかを以下に掲げる。見出しを一瞥するだけでもだいたい何を主張したいのかよくわかるだろう。

  • 英語力のある人の給料は、平均の2倍以上!?:50代後半では約800万の差が――「マイナビニュース」2013年11月12日 (マイナビニュース編集部 2013)
  • 英語力のあるなしで年収は30%も違う!?――「ダイヤモンド・オンライン」2012年7月23日 (高野 2012)
  • 英語力が将来の年収に影響...50代女性は3倍の開き――「リセマム」2014年9月19日 (奥山 2014)
  • 平均年収に約137万差、英語学習の開始時期が影響――「リセマム」2016年12月21日 (荻田 2016)

2.2. 英語教育の商品化との結びつき

上述の言説は就職情報産業の売り文句であることはあ事実である。就職情報産業は、人々の転職意識が高まれば高まるほど利益を得られるので、このような刺激的な文言を好んで使う。ただし、これが就職情報産業の専売特許かと言えば、そんなことはない。英語教育関係者もしばしばはこの手のセンセーショナルな物言いをするのは周知のとおりだからである。以下に、その例をいくつか示そう。

たとえば、この種の言説を盛んに拡散している教育企業が、EF Education First (以下EF社)である。留学サービス・語学サービスを主に取り扱うこの会社は、もともとスウェーデンの一企業だったが現在では世界中に支社を持つグローバル企業である。同社は、世界中で展開しているオンラインテストに基づいた独自の国別英語力指標(EF English Proficiency Index)を構築し、定期的に発表している(要は、「A国の英語力は何ポイント、B国の英語力は何ポイント…」といった類のものである)。さらに、各国の英語力指標と経済指標の関連性についての報告書「英語と経済、生活の質」も発表している3。EF社の英語力指標や報告書は、ウェブメディアを中心に日本のみならず世界中の様々なメディアで引用されている。

同報告書では、英語力の経済的収益性を端的に述べている部分がある。引用する。

英語能力と一人当たりの国民純所得[図1参照]には好循環の相互作用があります。英語能力の向上によって給与が上がり、政府や個人による英語トレーニングへの投資が増えます。多くの国々では、若年層における英語能力の高さと失業率の低さに相関関係があります。このことから分かるように、英語は国家の経済成長の鍵なのです。


図1 EF社報告書における「英語力と経済力の相関」の図示(出典 http://www.efjapan.co.jp/epi/insights/english-economics-and-quality-of-life/

EF社のこの解釈は、典型的な統計学的誤謬をいくつも含んでいるが (寺沢 2017)、その点はここでは問わない。注目すべきは、英語力が経済力向上に寄与するという因果関係を自明視している点である。そしてこの種の見解は、何もEF社の「発明品」などではなく、「英語と開発」の領域では古くから表明されてきたものである(cf. アーリング & サージェント 2015)。

日本の英語教育関係者に目を転じてみよう。上述のような見解を公表している語学産業は多々あるが、もっとも意外に思われるのが英検である。英検の正式名称は、公益財団法人・日本英語検定協会であり、紛れもなく公益性の高い非営利組織であり、したがって、発言内容は他の営利企業と一線を画すように思われる。しかし、「英語力の商品化」という点に関しては、次のように大差ない。英検は、2016年12月、独自の調査に基いた「英語力とQOL (クオリティ・オブ・ライフ) の関係性調査結果」(日本英語検定協会 2016) という報告書を発表した。本稿の主題と関係する部分を引用する。

英語学習を早くスタートするほど、将来的な平均年収は高くなる
英語学習開始時期と、現在の平均年収の相関については、40代、50代男性においては小学生以前に学習を始めたグループは、中学生以上から学習を始めたグループに対して、平均年収が約137万円高いことが分かりました。

この結論にも統計分析の点で看過し難い問題点があるが (寺沢 2016)、ここでは論じない。重要なのは、英検のような非営利的な組織ですら、いまや英語力で収入が左右される労働市場になっているという認識を披瀝している点である(なお、前述の「平均年収に約137万差、英語学習の開始時期が影響」という記事 (荻田 2016) はこの調査報告書をもとにしたものである)。

2.3. 「商品」の2つのタイプ:言語教育と言語能力

以上からわかるように、英語「教育」を商品として売り出す企業は、英語「能力」の商品化にも親和的である。言い換えれば、言語教育の商品化は、「言語能力 = 労働市場で売買できるもの = 商品」という意識と強く結びついている。なぜなら、英語力を向上させるインセンティブがあるからこそ、英語学習を提供する教育サービスの価値も向上するからである。英語力の商品化は、英語教育の商品化と密接に結びついている4

3. 言語経済学における「言語能力の商品化」言説

前節における「英語力の商品化」言説の概観を受けて、本節では同言説の妥当性を経済学の観点から検討する。言語を対象とする経済学の一分野に言語経済学という分野があり、英語力の商品化の問題はほぼ完全にカバーされている。以下、言語経済学を参照枠としながら検討したい。

3.1. 言語能力が賃金に与える影響

「英語ができるようになると給料が増えるのか」という問いは、少々通俗的に響くものの、言語経済学の主要なトピックの一つである。 言語経済学者として最も重要な人物の一人に、フランソワ・グランというスイスの経済学者がいる――実際、彼のPhDは経済学であり、「経済についても語る言語学者」ではなく経済学者である。グランは、2003年、言語経済学をめぐる70ページにもおよぶ展望論文のなかで、その主要なトピックを5つ上げている (Grin 2003)。その5つ5の中で彼が筆頭にあげているのが言語能力と労働者の所得の関係である。

このテーマを、グランはさらに次のように分類している。

  • (1) 第一言語の違いで所得に差が生まれるか
  • (2) 第二言語能力は所得を左右するか(これはさらに2aと2bに分類される)
    • (2a) X語が日常的に使われている社会で、第2言語としてのX語能力は所得を左右するか
    • (2b) X語が日常的に使われていない社会で、第2言語としてのX語能力は所得を左右するか

以下、グランの記述にしたがって説明していく。上記 (1) は第一言語の違い、つまり所属する母語コミュニティが異なるかどうかで所得に差が生まれるかという問いである。第一言語は、理論上、個人の意志で選択できないので、言語集団間の経済的不平等に関する問いと親和的である。

一方、(2) は第二言語能力に注目したものである。当該社会の社会言語学的状況により、さらに2つのパターンに大別される。(2a) はいわゆる「第二言語環境」を想定している。たとえば、米国に移住した非英語母語話者移民の所得は英語能力に左右されるか否かという問いを扱う。一方、(2b) はいわゆる「外国語環境」である。たとえば、日本国内で働いている日本語母語話者の所得は英語ができるかどうかで差があるかという問いである。この意味で、日本国内の「英語力の商品化」言説は、ほぼすべてが (2b) の問いである。

第二言語能力は、第一言語能力と違い、「生まれ」から理論上独立している(もちろん、あくまで理論上の話であり、実際には大きな影響を受けているが)。したがって、(2) は (1) のような集団間不平等の視点は相対的に弱くなり、代わりに、後述する「人的資本」形成の意味合いが強くなる。つまり、自身の第二言語能力に投資し、労働市場での自身の価値を高めることで、より多くのリターンを得るという考え方である。

3.2. 人的資本理論から見た「英語力の商品化」言説

人的資本という概念は、労働経済学・教育経済学の最重要概念の一つであり (小塩 2003)、人間自身を「資本」と見なす考え方である。つまり、将来的なリターンを期待して工場や生産装置に投資する設備投資と同じように、人間自身も投資の対象と考えるわけである。自分に(あるいは子どもに)教育投資をし、たとえば学力や知識、そして英語力などを蓄えることで、生産性を向上させ、その結果、賃金という形でリターンを得るという考え方である。

このように、人的資本理論の観点から「英語力の商品化」言説を眺めることで、言説の背後の重要な仮定が明らかとなる。それは、英語能力を人的資本として取引する労働市場が成立しているという前提である。この前提は、第二言語環境(上記の 2a の状況)では成立していることが多いと思われるが、外国語環境(2b)では微妙な問題を含む。この点を、日本社会における英語力の例で考えよう。「英語力=人的資本」という図式が成立するのは、英語力が仕事の生産性を直接的・間接的に向上させていて、かつ、それが賃金等に反映された場合である。逆に言うと、英語力が生産性に対して因果的な効果を持たない場合、それはもはや人的資本としては認められない。日本における仕事の多くも英語と無縁のものが多いと考えられるため6、就労者の大部分にとって、人的資本モデルは当てはまらないと言えそうである。

3.2.1. シグナルとしての側面

注意が必要なのは、英語力と生産性の間に因果関係がなくても、何らかの相関関係は想定できる点である。たとえば、業務内容は英語とまったく関連せず、英語と生産性は無関係な仕事があったとしよう。このとき、雇用主が「語学は粘り強い努力が必要だ。だから英語ができる人間はそれだけ粘り強く仕事ができるはずだ」という信念(誤信念でも構わない)を持っていて、英語ができる人間に大きな価値を置いた場合、英語力と賃金の間には正の相関が期待できる。さらに、この信念が妥当だった場合、仕事の生産性とも相関する。

つまり、生産性を左右する真の要因を被雇用者が持っているかどうかわからないとき、雇用主はわかりやすいシグナル(この場合は「英語力がある」)で判断するということである。雇用主は被雇用者の能力がわからないという情報の非対称性に起因した賃金上昇効果は、シグナリング理論と呼ばれ、人的資本理論とは厳密に区別される。

3.2.2. 第三の変数による擬似相関

さらに複雑なことに、仮に情報の非対称性がなかったとしても英語力と賃金等の生産性は擬似的な相関関係を示すことである。ありえない仮定ではあるが、雇用主が被雇用者の「粘り強さ」などを完全に把握できるとしよう。こうなれば、雇用主は英語力というシグナルに注目する必要がなくなる。しかし、ここで問題になるのが、英語力と強く相関する人的資本(の候補となるもの)が存在する点である。

その筆頭が学歴である。人的資本理論の枠組みでは、学歴が高まること、言い換えれば追加的に教育を受けることは、それだけその人の生産性を高めると仮定している。これが事実だとすると、「学歴→賃金」という因果関係は妥当である。一方、日本社会では多くの人が学校教育期間に英語力(の少なくとも基礎)を形成し、実際、高学歴であるほど英語力が高いことがわかっている (寺沢2015: 1章)。このとき、「学歴→英語力」という因果関係も成立する。これらが合成されると、英語力と賃金の間に因果効果が存在しないにもかかわらず、相関が生じることになる。

3.3. 「英語力の商品化」の理論的整理

以上の理論的前提を踏まえたうえで、「英語力の商品化」言説の妥当性を検討しよう。英語力と生産性(賃金等)との関係は次の3つが想定できる 。それぞれを図示した図2も参照されたい。

  • (A) 人的資本理論
  • (B) シグナリング理論
  • (C) 第三の変数を介した擬似相関

図2 英語力と生産性の関係

まず、理論上の妥当性を考えてみよう。結論から言えば、すべてのモデルが日本にあてはまる可能性がある。Aの人的資本理論はまさに「英語の商品化」言説が述べているものである。近年のビジネス言説でよく言われる、被雇用者の一人ひとりの英語力向上が国際競争力を高め、仕事の質を押し上げるという説(いささか「風が吹けば桶屋が儲かる」感のある推論だが)が事実だとすれば、あり得ない話ではない。

Bのシグナリング理論も一応もっともらしい。日本では英語を必要としない業務が多数派であり、高度専門職者にも英語を一切必要としない者は多い(例えば、福祉サービス産業や保険産業など。詳細は寺沢 (2015: 8章))。その点で、英語力そのものが生産性を向上させている状況が想定できない場合も多い。他方、英語力にシグナルの面があることは事実だろう。実際、英語力、とりわけ学力としての英語力は、一般的学力の高さや勤勉さ、努力への耐性などの代理指標としばしば見なされてきた(例えば、平泉・渡部 (1975, pp. 43–5) における渡部昇一の発言)。したがって、雇用主側が、意識・無意識にかかわらず、英語力の高い就労者の職業能力を高く評価する可能性もある。

Cの第三の変数による擬似相関も十分考えられる。最もありそうな第三の変数が、前述の通り、学歴である。つまり、「学歴→英語力」と「学歴→生産性」の合成で、賃金差の大部分を説明できてしまうかもしれない。

実証分析でBとCを弁別するのは現状ではきわめて困難だが(情報の非対称性の指標となる変数が入手できない)、Aか否かは、寺沢 (2015: 10章) が、日本の就労者データを計量分析することですでに検討している。本稿の目的は「英語の商品化」言説の検証であり、その点でもAかどうかが検証できれば十分と考える。以下、その実証分析の結果を見ていき、人的資本としての英語力というモデルが妥当かどうかを論じたい。

3.4. 分析モデル

寺沢 (2015: 10章) が行った「英語力=人的資本」を判別するアイディアについて説明する。この弁別のために、次の仮定を導入した。

  • 仮定「必要性と人的資本は対応する」(needs–human-capital correspondence: NHC)
  • NHC-1:英語使用の必要な職場で英語は人的資本として機能する
  • NHC-2:英語使用の必要ではない職場では、英語は人的資本として機能しない。

したがって、NHC-2の状況でたとえ英語力による賃金差が確認できたとしても、他のメカニズム(シグナリング or 擬似相関)によるものであると考える。さらに、次の仮定を入れる。

  • 仮定「いずれの環境でも、賃金への擬似的な効果は一定程度働く」

つまり、NHC-1の環境でも、NHC-2で確認された疑似効果と同程度の疑似効果が働くということである。つまり、NHC-1における英語力による賃金差は、「人的資本の効果」と「擬似的な効果」に分解できると考える。

この議論を図示したものが図3である。この図をもとに、あらためて整理しよう。英語力がない人(図中の①)は英語力以外の様々な要因(例、学歴・経験年数・年齢)で賃金が形成されていると考えられる。そして、英語力はあるが英語使用の必要がない人(図の②)の場合、英語力は人的資本として働いていないので、②から①を引いた上昇分が疑似効果と考えることができる。さらに、英語力があり、使う必要もある人(図③)の賃金にもこの疑似効果は同程度含まれるという仮定なので、③から②を引いた上昇分が人的資本としての効果と見なすことができる。


図3 賃金の構成

以上のモデルが意味することは、「英語力」「英語使用の必要性の有無」そして「賃金」という少なくとも3つの変数が測定できれば分析可能だということである。ただし、実際には所得はこれ以外の多くの要因、例えば経験年数や年齢、職種や産業によって決まる。とくに学歴は、英語力との相関が高く、擬似相関の恐れの大きい要因なので、分析モデルに投入することは不可欠である。結局、以下の実証分析では、次の変数を分析モデルに含めている:年齢、年齢の2乗、仕事の経験年数、経験年数の2乗、就学年数(学歴の代理指標)、職種、外資系か否か、産業、事業所規模、雇用形態(正規か非正規か等)。

3.5. 実証分析

以上のモデルに基いた寺沢 (2015: 10章) の分析を紹介したい。寺沢の分析では、次の2つのデータが用いられている。1つ目が、リクルートワークス研究所「ワーキングパーソン調査」2000年版であり、母集団は首都圏・中京圏・関西圏の18-59歳の就労者である。分析ではさらに正規雇用の就労者に限定し、年収への効果を推定している。2つ目が、日本版総合的社会調査の2006年版・2010年版で、2つの年次のデータを合併して分析した。この調査の母集団は、調査時に日本国内に居住する日本国籍保持者である。分析対象はあらゆる雇用形態の就労者サンプルである(年収を時給に変換したうえで比較した)。

以下、人的資本の効果だけに絞って紹介する。表1は分析結果を整理したものである。表の数値は、前述のモデルを仮定したときに推定された人的資本としての効果である。当該のレベルの英語力を保持していると保持していない場合と比較して何パーセント賃金が上昇するかということを意味している。たとえば、0.04 は、推定の結果 4%の賃金上昇が確認できたという意味である。


表1 分析結果の概要(出所:寺沢2015: 10章)

まず、ワーキングパーソン調査の結果を見ていこう。「日常会話程度」の英語力の人的資本としての効果は男性が4%, 女性が3%である。男性の効果は統計的に有意なので、ある程度信頼性のある結果と判断できる。一方、女性の場合は、ケース数の少なさもあり、推定値のブレが大きい。つまり、実際には3%よりももっと高い効果だったかもしれないし、あるいはもっと低かった(あるいはマイナスだった)かもしれない。一方、よりハイレベルな英語力、つまり「仕事上の交渉or通訳ができる」レベルの英語力については、男女いずれも12%である(ただし、男性だけが有意)。これらの結果が示唆するのは、少なくとも男性については、それほど大きなものではないものの、人的資本としての効果が確認できることである(効果の大きさについては後述)。

次に、比較的新しく、色々なタイプの就労者をカバーする日本版総合的社会調査(2006年・2010年)の結果を確認しよう。表1によると、男性はマイナス18%、女性はプラス29%の推定値が得られたが、いずれも統計的に有意ではなく、信頼性は乏しい。前述のワーキングパーソン調査の結果よりも推定値が両極にふれ、しかも有意ではないのは、ケース数に起因していると考えられる。つまり、同調査における英語力保持者の絶対数が少なかったため、推定精度が悪くなってしまったと思われる。

3.6. 「英語力の商品化」言説は実態を反映しているか?

以上の賃金上昇効果は、「英語力の商品化」言説を考える上でどのような示唆があるだろうか。以下、推定精度が比較的良好である、ワーキングパーソン調査における男性の結果を前提に論じたい。この結果によれば、日常会話程度の英語力は4%、仕事上の交渉が可能な英語力では12%賃金を押し上げることになる。年収500万円がそれぞれ520万円、560万円への増加である。英語力(とくに高度な英語力)の希少性――つまり、習得に大きな経済的・時間的・精神的コストがかかるため一部の人しかアクセスできない――を考えると、一見わずかな差のようにも感じる。

ただし、生涯賃金を考慮するなら必ずしもそうとは言い切れない。仮に生涯賃金が2~3億円だとすると、4%の上昇は800~1200万円、12%の上昇は2400~3600万円である。このとき、経済的コストは、英語教材や英会話スクールなど英語学習に支払った総額に、機会損失(つまり、英語学習に費やした時間を賃労働に当てていれば得ることができたはずの利益)、そして、機会損失の利子を足し合わせたものである。機会損失の正確な推算は難しいが、たとえば時給2000円の就労者が英語学習に1000時間かけた場合、機会費用の損失は200万円である。この損失額は、上記の800~1200万円よりもまだかなり距離がある。その点で、英語の人的資本としての上昇効果は、劇的なものではないが、ある程度は認められると考えられる。

ただし、ここで示した利益は、ある程度割り引いて理解すべきものでもある。なぜなら、分析ではきわめて重要な変数である学校歴(卒業した大学・高校)を統制できていないからである(いずれの調査にも設問が含まれていなかった)。学校歴は英語力と賃金の双方に影響を及ぼし、疑似的な効果を増幅させる要因である。たとえば、選抜度の高い大学(つまり、いわゆる高偏差値の大学)の卒業生は、平均的英語力も平均賃金も、そうでない大学の卒業生よりも高いはずである。したがって、この変数がもし統制できた場合、上記の4%・12%という数値はさらに小さくなることは想像に難くない。 また、本分析で示された「マイルドな」効果は、「英語力の商品化」言説の誇張ぶりを際立たせている。第2節で引用したものを今一度引用する。

  • 英語ができる人の年収は、同年代の平均的な年収よりも高い…平均年収との差、なんと209.4万円!
  • 英語力のある人の給料は、平均の2倍以上!?―50代後半では約800万の差が
  • 英語力のあるなしで年収は30%も違う!?
  • 英語力が将来の年収に影響...50代女性は3倍の開き
  • 平均年収に約137万差、英語学習の開始時期が影響

ここで紹介されている「英語力から得る利益」は、本稿の推定結果よりも明らかに大きい。実際、上記の調査報告は、英語力と賃金の2変数の関係しか見ておらず、人的資本として働いていない可能性、第三の変数による擬似相関の可能性をまったく考慮していない。この意味で、「英語力の商品化」言説は、現在流通しているものに限ってみれば、現在の日本社会の労働市場にほとんど当てはまらないと言える。そして、大前提として、前述の通り、日本社会での仕事での英語使用ニーズは限定的であり、大部分の就労者には「英語力の商品化」は当てはまらないということも押さえておくべきである。

4. 結論

本稿は、言語の商品化について、労働市場で売買される言語能力の観点から検討した。とりわけ、日本における「英語力の商品化」、つまり「英語ができるようになれば賃金が上がるのか」という問題を検討の俎上に載せた。この問題は、言語経済学の枠組みから眺めることで、英語力が人的資本として機能しているか否かという問題であると整理できることを確認した。さらに、寺沢 (2015) が行った実証分析を紹介し、日本社会において英語力の人的資本としての効果は、ないとは言い切れないが必ずしも大きなものではない――少なくとも、就職・転職情報産業や英語教育関係者が喧伝するほど劇的なものではない――ことを論じた。

次に、この日本の結果を、他国の結果と比較し、より一般的な示唆を考えたい。海外にも、第二言語としての英語力の賃金上昇効果を検討した先行研究が存在する。3.1節の類型化で見たとおり、英語圏における研究 (3.1節の分類における2a) と、非英語圏における研究 (2b) の2つのパタンがある。本稿では、日本の状況により近い後者にフォーカスして、議論を行いたい。

英語圏においては、移民を対象にした研究によって、英語力に賃金上昇効果があることは長らく知られていたが (例Chiswick & Miller 1998, 1999, 2002; Miller & Chiswick 1985; 松繁 1993)、近年、非英語圏にも同様の現象があるらしいことが示されている。非英語圏における英語力の賃金への効果を初めて実証したのが前述のフランソワ・グランである (Grin 2001)。グランは、スイスの就労者データ(1994-1995年調査)を用い、他の要因(教育レベル・勤続経験等)を統制してもなお英語力が賃金を上昇させるかを検討した。その結果、英語が流暢な人は、英語力がない人と比較して、男性で1.31倍、女性で1.22倍、賃金が高かった。グランはこの結果から、非英語圏においても、(生活言語ではなく)国際語としての英語の能力が賃金を押し上げたのではないかと論じている。

ただし、グラン自身が、同論文のなかで、この効果が必ずしも人的資本とは言いきれないと譲歩している点は注意が必要である (Grin 2001, p. 74)。つまり、グランは、シグナルの効果 (3.3節参照) である可能性を排除していないのである。グランの分析モデルでは就労者個々の英語使用ニーズが考慮されておらず、したがって、ニーズの有無と関係なく同一の賃金上昇効果が仮定されていた。つまり、グローバル就労者とローカル就労者の双方に同質のモデルを当てはめているわけである。極端な例でいえば、日夜世界を飛び回る人(例、グローバル企業や国際機関の職員)と居住地周辺で仕事が完結する人(例、農業・牧畜従事者)のいずれにも同レベルの賃金上昇効果を認めていることになる。したがって、後者のタイプの就労者に賃金上昇効果が見られたとしてもそれはシグナルの可能性が高い。後者の可能性を排除するような枠組みを採用できなかったからこそ、グランは人的資本の効果と明確に結論付けなかったわけである7

しかし、グラン自身の譲歩はもっともだとしても、他方、もしシグナリング理論が妥当だとしたら「国際語としての英語の能力」という説明からきわめて大きく逸脱していることになる。たしかに、英語のもつ国際語という性質は人的資本理論と関連が深いが(例「国際コミュニケーションが可能な就労者のほうが質の高い海外取引ができる」)、その一方で、シグナリング理論とは関係が薄い。むしろ、シグナルとしての働きは国内労働市場の構造に大いに依存する。「国際語としての英語の能力」というイメージは、「英語力の商品化」言説を増殖させる原動力と考えられるが、その実態は、第一人者の分析でも——しかも貿易依存度の相対的に高いスイスにおいても——必ずしも明確に実証されているわけではないのである8

ここで議論が終わるのなら単に実証分析の解釈の問題で済むのだが、実際にはそれを越えたインパクトが伺われる。というのも、応用言語学者や英語教育研究者がこのような分析結果を引用すると、しばしば「人的資本vs. シグナル」をめぐる複雑な問題が捨象されてしまうからである。たとえば、冒頭で引用したCameron (2012) は上述のグランの研究を英語の市場価値の証左として引用している(p. 354)。このような取扱いには、「英語力=人的資本」説がまだ仮説——有力な仮説であることは事実だとしても——の段階に過ぎないという留保は感じられない。シグナルあるいは擬似相関の可能性を忘却させ、生産性の源泉のように思い込ませるイデオロギーが、言語能力には(特に英語力には)働いているように考えられる。

グローバル化の進行——特に、グローバル企業の台頭や国外就労コストの低下——によって、英語が話せる就労者が同時に高賃金を達成している事例を見る機会も増えた。英語力と賃金のこの相関関係を安易に「英語力=人的資本」と解釈してはならないことは本稿で論じたとおりであるが、一方で、「英語力=人的資本」と理解したくなる誘引力が存在するように思われる。その誘引力の第一が、国際語としての英語をめぐるイデオロギーであり (Pennycook 2004, Phillipson 1992, 寺沢 2015) 、第二が言語道具主義イデオロギーであると考えられる。

以下、第二の点について議論したい。言語道具主義 (linguistic instrumentalism) とは、言語を個人に帰属するもの、つまり道具のようなものと見なす考え方である (Kubota 2011)。この考え方に則れば、言語能力は自動的に個人の所有物とみなされる。そして、個人所有の「道具」だからこそ、投資をして鍛えようという発想になる。その点で、人的資本理論ときわめて相性が良い考え方である。つまり、「ある人の言語能力はその人が努力して身につけた結果、つまり自己投資の結果であり、投資したからには利益を生むはずである」という人的資本理論的な言語観は、言語道具主義と表裏一体である。 しかし、実際には、第一言語であれ第二言語であれ、言語能力は公共財としての性格を多分に持つ。註1でも述べたとおり、ある人がX語能力を身につけると、その人だけでなくX語コミュニティ全体に利益を生む。さらに、その人がY語もできれば、X語で得た情報をY語につなぐこともできるので、Y語コミュニティにも恩恵がある。

実際、多くの国の言語能力形成=言語教育は、個人の将来的な収益を最大化するためだけではなく、公共的な目的でなされている。むしろ、世界のあらゆる地域で外国語教育制度がこれほど発達している現状は、何らかの公共的目的を想定しなければ説明不可能だろう。たとえば、日本のような典型的非英語圏において英語が事実上の必修科目として教えられてきたのは人的資本理論ではまったく説明できないし (寺沢 2014)、これは英語圏英米旧植民地のような準英語圏でも同様である。

このような実態にもかかわらず、言語能力を個人の所有物とするまなざしが、「投資されたのだから収益を生むはずだ」という人的資本理論を駆動していると考えられる。前述のとおり、言語現象の分析についてよく訓練されている研究者ですら人的資本理論的な解釈を容易に受け入れてしまいがちであることは、このイデオロギーの強力さを示していると言える。

本稿では、日本の就労者の分析をもとに、「英語能力の商品化」言説の誤謬を明らかにした。その結果を踏まえ、終節でこの誤謬は日本だけに当てはまるものでもないし、英語能力のみに限定されるものでもない可能性を論じた。なぜなら、その背後には、ある程度普遍的なイデオロギー(国際語イデオロギー・言語道具主義イデオロギー)が介在していると考えられるからである。言語能力の商品化をめぐる種々の議論は――たとえ著名な研究者の分析だったとしても――今一度、批判的に検討する必要があるように思われる。

参考文献

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  • 奥山直美 (2014) 「英語力が将来の年収に影響: 50代女性は3倍の開き」リセマム2014年9月19日 https://resemom.jp/article/2014/09/19/20502.html (2017年5月7日閲覧)。
  • 荻田和子 (2016) 「平均年収に約137万差、英語学習の開始時期が影響」 リセマム 2016年12月21日 https://resemom.jp/article/2016/12/21/35613.html(2017年5月7日閲覧)。
  • 小塩隆士 (2003) 『教育を経済学で考える』日本評論社
  • 北村文 (2011) 『英語は女を救うのか』 筑摩書房
  • 高野秀敏 (2012) 「英語力のあるなしで年収は30%も違う!?押し寄せるグローバル転職の波に勝つ人、負ける人: 35歳からの『転職のススメ』」 ダイヤモンド・オンライン2012年7月23日 http://diamond.jp/articles/-/21876(2017年5月7日閲覧)。
  • 寺沢拓敬 (2014) 『「なんで英語やるの?」の戦後史:国民教育としての英語、その伝統の成立過程』 研究社。
  • 寺沢拓敬 (2015) 『「日本人と英語」の社会学:なぜ英語教育論は誤解だらけなのか』 研究社。
  • 寺沢拓敬 (2016) 「『英検1級をとると幸せになる』という調査結果の衝撃(?)」Yahoo!ニュース(個人)2016年12月24日https://news.yahoo.co.jp/byline/terasawatakunori/20161224-00065856/(2017年5月7日閲覧)。
  • 寺沢拓敬 (2017) 「英語ができると、幸福になる、GDPが上がる、南北回帰線から離れる…!?」Yahoo!ニュース(個人) 2017年1月19日https://news.yahoo.co.jp/byline/terasawatakunori/20170119-00066767/(2017年5月7日閲覧)。
  • 日本英語検定協会 (2016) 「英語力とQOL (クオリティ・オブ・ライフ) の関係性調査結果」。https://www.eiken.or.jp/association/info/2016/1219_01.html(2017年5月7日閲覧)。
  • 平泉渉渡部昇一 (1975) 『英語教育大論争』 文藝春秋
  • プレジデントファミリー (2008) 「英語が喋れると、年収が高くなるのか?」『プレジデントファミリー』2008年5月号, pp. 36–45。
  • マイナビニュース編集部 (2013) 「英語力のある人の給料は、平均の2倍以上!?: 50代後半では約800万の差が」マイナビニュース 2013年11月12日http://news.mynavi.jp/news/2013/11/12/218/ (2017年5月7日閲覧)。
    • 松繁寿和 (1993) 「オーストラリア非英語使用市民の職探しにおけるハンディキャップ」『オーストラリア研究』4号, pp. 38–50。
  • Azam, Mehtabul, Aimee Chin, & Nishith Prakash (2013) “The Returns to English-Language Skills in India”, Economic Development and Cultural Change 61.2, pp. 335–67.
  • Cameron, Deborah (2012) “The Commodification of Language: English as a Global Commodity”, T. Nevalainen & E. C. Traugott (eds.) The Oxford Handbook of the History of English, Oxford: Oxford University Press, pp. 352–61.
  • Chiswick, Barry R. & Paul W. Miller (1998) “Census Language Questions in North America”, Journal of Economic and Social Measurement 25.2, pp. 73–95.
  • Chiswick, Barry R. & Paul W. Miller (1999) “Language Skills and Earnings among Legalized Aliens”, Journal of Population Economics 12.1, pp. 63–89.
  • Chiswick, Barry R. & Paul W. Miller (2002) “Immigrant Earnings: Language Skills, Linguistic Concentrations and the Business Cycle”, Journal of Population Economics 15.1, pp. 31–57.
  • Grin, François (2001) “English as Economic Value: Facts and Fallacies”, World Englishes 20.1, pp. 65–78.
  • Grin, François (2003) “Language Planning and Economics”, Current Issues in Language Planning 41, pp. 1–66.
  • Miller, Paul W. & Barry R. Chiswick (1985) “Immigrant Generation and Income in Australia”, Economic Record 61.2, pp. 540–53.
  • Pennycook, Alastair (2004) “The Myth of English as an International Language”, English in Australia, 139, pp. 26–32.
  • Phillipson, Robert (1992) Linguistic Imperialism. Oxford: Oxford University Press.
  • Piller, Ingrid & Kimie Takahashi (2006) “A Passion for English: Desire and the Language Market”, A. Pavlenko (ed.) Bilingual Minds: Emotional Experience, Expression, and Representation, Clevedon: Multilingual Matters, pp. 59–83.
  • Kubota, Ryuko (2011) “Questioning Linguistic Instrumentalism: English, Neoliberalism, and Language Tests in Japan”, Linguistics and Education, 22.3, pp. 248–60.
  • Takahashi, Kimie (2013) Language Learning, Gender and Desire: Japanese Women on the Move. Clevedon: Multilingual Matters.

  1. 言語能力は、言語関連の製品やサービスと違って、経済学で言うところの公共財としての性格を持つ。その結果、ネットワーク外部性 (network externality) を持つ。たとえば、ある人がX語の言語能力を獲得した場合、彼/彼女のX語能力はこのひと自身だけに利益を生むわけではない。既存のX語話者集団にとっても、この人との情報取引の機会が生み出されたことになるので、利益と言える。
  2. 編集部が実施したアンケートには代表性がまったくない。また、英語力と賃金の関係しか見ておらず、擬似相関の可能性をまったく考慮していない(この問題については後述する)。
  3. http://www.efjapan.co.jp/epi/insights/english-economics-and-quality-of-life
  4. ただし、英語力の商品化は重要な要因のうちあくまでひとつの要因である。西洋や白人文化というパッケージを「売る」ことで、英語学習に対する憧れを商品化してきたのが戦後の少なくとも一部の英会話学校だからである (Piller & Takahashi 2006; Takahashi 2013; 北村 2011)。
  5. なお、グランがあげている5つのトピックとは次の通りである(Grin 2003)。(1) 言語能力と労働者所得(本文で説明)。(2) 言語のダイナミズム(各言語の勢力拡大・勢力縮小に経済モデルを適用)。(3) 経済活動における言語の役割(言語関連の商品(goods)やサービスの経済分析も含まれる)。(4) 言語政策の経済学(特定の言語政策の効率性・平等性の分析)。(5) その他(言語選択の効率性や言語と通貨の関係について等)。
  6. 寺沢 (2015: 8章) の分析によれば、日本での英語使用が必要な就労者は、かなり限定的な使用を含んだとしても全就労者の2割を下回る。
  7. この区別は、いわゆる「外国語としての英語」――つまり、3節で紹介したテーマ類型における (2b)――についてまわる問題である。一方、(2a) の英語圏における移民を対象とした研究 (例, Chiswick & Miller 1998, 1999, 2002; Miller & Chiswick 1985; 松繁 1993) の場合、大きな問題にならないと思われる。なぜなら、この種の移民にとって英語使用の必要性は普遍的だからである。
  8. なお、準英語圏とも言えるインドにも同様の研究があるが (Azam et al. 2013)、やはり人的資本の効果なのかシグナルの効果なのかは曖昧である。

批判的応用言語学と権威主義(あるいはミーハー志向)

批判的応用言語学の「批判的」とは,狭い意味での「批判的思考」(いわゆるクリシン)を意味するものではなく,あらゆるタイプの観念・知・体制に対する根本的な批判です1。(近代を特徴づける学問知,言語観,社会観,文化観,教育観 etc.)

しかし,なんでもかんでも批判的検討に付せるかというとそうでもなく,現実的・実践的に相性の悪いものがあると思います。そのひとつが権威主義批判です。

理論的に,ではなく現実的・実践的に,権威主義批判と相性が悪いというところがポイントです。 というのも,理論的に見れば,批判的応用言語学の批判性は当然ながら,権威主義にも向かうからです。 他方で,以下に述べる事情から,現実的・実践的には,むしろ権威主義と共犯関係になりかねない危うさもある気がします。

権威主義,近代的概念,批判的アプローチ

権威主義批判は,別に,「批判的」を冠する諸アプローチの専売特許ではありません。 むしろ,近代的学問概念――典型的には科学――や,近代的社会概念――民主主義,人権 etc. ――も,権威主義に対するアンチテーゼとして機能している面が大きい。

つまり,批判的応用言語学が,反権威主義を掲げる近代的概念を批判するなかで,いわば「敵の敵は味方」のように,権威主義に近接するという危うさを現実的に内包しかねないわけです。

近年の応用言語学は,科学に対する権威主義はだいぶ中和されてきました。おそらくこれは,批判的応用言語学の功績でしょう。 でも,批判的応用言語学者が,科学に対する批判あるいは相対化作業を基礎づけるために(あるいはもっと露骨に「権威付ける」ために),「西洋の知の巨人」,つまり,ポストモダンポスト構造主義/ポストコロニアリズムの哲学者・理論家などのワンフレーズ引用にしばしば頼るのはたいへん皮肉な状況です2。 しかも,引用が短文であるほど,そして,皮相的であるほど,実際に出典元を読んでいるかどうか怪しく思えてきます。 あるある話として,「コミュニケーションが大事だ」程度のことを言うためだけにハーバーマスを引用したり,「私達の(言語)能力は社会構造に左右される」程度のことを言うためだけにブルデューを引用したり・・・。 ここでよく引用されるラインナップを見ると,西欧白人人文学への権威主義が蔓延していて,とても皮肉です。

科学は,批判的応用言語学が正しく指摘する通り,それ自体が容易に権威性を帯びることは事実です。 しかし,同時に,反権威主義・脱権威主義的な営為として機能することも事実です。 科学者の(ときにナイーブな)行動指針は,「誰が言ったかではなく,何が言われたかを重視せよ」ですし。

「誰の発言か」というミーハー志向を越えられるか

「誰が言ったかが大事」という原理は典型的な権威主義――あるいはもっと悪いパタンはミーハー志向(笑)――ですが,科学とか実証主義とかは,権威主義へのある程度のカウンターとして役立ってきました。 データが大事,事実が大事,という指針は,属人的権威主義を克服する非常にシンプルで訴求力のあるメッセージです。

他方,実証主義への恭順を放棄した批判的応用言語学が,権威主義にどう対峙できるかは実践的・現実的には,実はなかなかややこしい問題でしょう。

もちろん,伝統的には,別のアプローチがきちんと用意されてきています。それは,人ではなく,理論的テクストを重視するというものです。 しかし,批判的応用言語学だとそこもかなり怪しい。 良くも悪くも実践志向・応用志向なので,テクストの読解に拘泥するのもたしかに何か違うかなというのはわからなくもありません3

他方で,その必然的なジレンマとして,インプリケーションが抽象的(つまり脱コンテクスト的)になればなるほど,きわめて凡庸な話しかできないという問題があります。たとえば「言語は動的だ」「権力は遍在している」「知は構築される」「現実は多様性に満たされている」のように凡庸な主張をワンフレーズ引用から導いたりすると,「そんなこと,テクストを読まなくても言えるでしょ?著名人の著作をちょろっと引いてるだけなのは権威主義では?」と疑念を持たれるのは当然でしょう。

もっとも,ワンフレーズ引用にとって,有名な学者はたいへん都合がよいのは事実です。「ハーバーマスの言う通り」「フーコーの言う通り」「ブルデューの言う通り」「サイードの言う通り」で,文脈を作れるので。

ただ,「その主張をしたいなら,(有名著者ではないけど)もっとよい文献があるのに…。批判的言語教育を標榜しているのに,権威主義には批判的にならないんですね…」と残念な気持ちになることもよくあります。


  1. 過去ログ:批判的応用言語学の「批判的」に関する誤解 - こにしき(言葉・日本社会・教育)
  2. ここでポストコロニアリズム理論家は,単なる西洋偏重という点で言えば,微妙な立ち位置です。ただし,批判的応用言語学において,どのポストコロニアリズム理論家がどういう作法で引用されるかを見ると,やはり西洋偏重の枠組みで考えたほうがよいのではないかという状況も頻繁に耳にします。そこで参考になるのが,Leon Moosavi (2020) の「脱コロニアルなバンドワゴン,および知的脱コロニアル化の危うさ」という論文です。Moosavi は,同論文のなかで,脱コロニアルがスローガン化しつつあって景気がいいけど,結局引用されるのはサイードとファノンのような西洋で受けがいい理論化ばかりで,それ以外の「南の」理論家はほぼ無視じゃん!的な皮肉を言ってます。https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/03906701.2020.1776919
  3. 例外的に,一部の批判的なアプローチの応用言語学者は,テクスト読解にかなりウェイトを置いた著作を出しています。たとえば,David Block (2018) Political Economy and Sociolinguistics や John O'Regan (2021) Global English and Political Economy. これら2つの本はいずれも,ページのかなりの部分(とくに書籍前半部分)が理論的テクストの読解作業にあてられており,言語の話がぜんぜん出てこなくて読んでいて不安になります(笑)。

木村 2021「ポストモダン言語論を問いなおす」論文,読後メモ

先日のこちらの読書会 での論文メモ。

非常に示唆に富む論文で,考えたいことが山のように湧いてくる素晴らしい論文でした。以下にダラダラと書いていますが,個人的にもっとも響いたのは,「自明なことをなぜわざわざドヤ顔で言うの?」という話です。これは本当に謎。誰かざっくばらんにかつ誠実に論争しあえるひとたちにぜひ深掘りしてほしい。

書誌情報

木村護郎クリストフ (2021)「社会言語学に「言語」は必要か? ポストモダン言語論を問いなおす ? 」『社会言語学』 21号

「自明なことをなぜわざわざドヤ顔で言うの」問題

ポストモダン言語論による「既存の言語観の乗り越え」の提唱は]社会言語学が遅 くとも1960年代から前提にしてきたことをさも新 しいことかのように再提示するだけで何も新しい知見を提供しない(p. 4)

  • これは,個人的にも以前からずっと思ってきたことで,たぶん多くの人は思っているのに,このような「自明なことをドヤ顔で語る」が蔓延しているのは逆に不思議。私は論文を投稿すると,査読者からしょっちゅう「こんなことは前から言われてきた」といってリジェクトを食らうんですが,この業界は新規性はあんまり重要じゃないんですかね。なお,この点にかんする尾辻論文の応答も,「今まで言われてきたこと」をあらためてまとめ直しているだけで,「応答」にはなっていない気が・・・。
    • 余談ですが,応用言語学複雑系や superdiversity, translanguaging 論の文献って,個人的には非常に難しい(何を言っているのかわからない)んですけど,哲学書の難解さと言うより,まさにこの種の難解さという気がします。。>「一見こんなに自明なことを,そんなドヤ顔で言えるのはなぜかわからない。とはいえ,ドヤ顔で言うからにはそれなりの含蓄があるはずだ。その含蓄がわからない」
ポストモダン言語論の言語政策バージョン
  • p.3に関連して情報提供ですが,言語政策の教科書として定評がある(たぶん)ものに,Elana Shohamy の Language Policy: Hidden Agendas and New Approaches. という本があります。この本は,いわばポストモダン言語論の言語政策バージョンという感じです。導入部分で,「言語」を大きく拡張することを明確に宣言しています。たとえば,食べ物とかファッションとか。

ただの「頭の体操」?
  • 批判的意見を書くと,「言語をこういうふうにも定義できる」という話と,「言語をこういうふうに定義すると,学術的 or 実務的 or 運動的によいことがある」という話はぜんぜん別で,前者はハードルがかなり低い楽なタスク(単なる「頭の体操」の範疇なので)。でも,簡単なだけに意味は小さめ。本当に意味があるテーマは,後者も踏み込まないといけないと思います。教科書であるにもかかわらず,Shohamyは私が読む限り,言語概念拡張という伏線(=どんなよいことがあるのか)を回収せずに終わってます。
Superdiversity
  • p.4 super-diversity. これも情報提供ですが,応用言語学における super-diversity 概念は,Aneta Pavlenkoによってかなり痛烈に批判されています。
  • 尾辻論文を読むと,尾辻さんも別に推してはないんですね(正直,この辺の賛成反対が予想できなくて,難しい…)。
  • ちょっとバズっただけで,消えていく運命なんでしょうか…。

ストローマン論法?
  • p.7. いずれの立場も,均質な言語観ではとらえられない現実があるということを認めている,という共有点の確認は大事。
  • しばしば,流動性重視派が(ストローマン的に?)批判する固定的言語観の人って具体的にどのあたり?私が知る限り,ガチガチの実証系の言語学者でも,言語の区切りという理論的架構=作業仮説を真剣に信じちゃってる人はほとんどいないと思いますが・・・。
  • (同様の構図は,ストローマン的?に批判される量的研究者/実証主義者,という構図でもしばしば見ます)
戦略的本質主義
  • p.12. 戦略的本質主義という論点は重要ですね。単なる「頭の体操」話にならず,実際にどう実践・運動ができるかという点で真剣に論じる意義があると思います。そもそも有名な論点なので,いままでにも結構批判されてきたポイントだと思うんですが,ポストモダン派たいして誰も応答してないように見えるのが残念。

虚構暴きの含意は多様(なので虚構暴きでは,通常,議論は終えられない)

  • p.14. 虚構暴きそのものはたしかに認識論的な問いだろうけれど,実践・運動への含意は多様。虚構を暴いたからといって即特定の実践が導けるわけではない。どういう含意があるか腑分けしてみたいところ。
  • 「虚構」を理論的架構として単に切って捨てるのではなくて,その作動をまじめに検討するのは社会科学のむしろ王道という感じがする。とくに,慣習制度=虚構を研究する学問としての社会学。社会科学を参照しながら,いろいろやれるのに,,,と思わなくもない。
  • 余談。ポストモダン応用言語学は,著名な社会学者が引用(ワンフレーズ引用)される割に,社会学学説史や実証的社会学の成果がぜんぜん引用されないという印象。

メモ:科学的英語学習論における「科学的」の2つの意味。

  • A. 既存の科学との連続性
    • 科学としての権威が高いほかの学問(典型的には自然科学,ただしメソドロジー学問[統計学等]は除く)と何らかの接続をすること
  • B. 手続きの洗練度
    • データに基づく因果推論,および,変数作成の手続きの透明化

Bあり Bなし
Aあり 科学知識・手続き両面での洗練 自然科学理論を援用するが手続きは素朴(単なる相関等)
Aなし 洗練された手続き。背景理論は常識理論あるいは人文社会理論 人文学
  • A・B両方あり
    • 多くの教授法・学習法比較研究
  • Bのみ(Aなし)
    • 社会調査および大規模学校調査。例,早期英語の効果を検討したバルセロナプロジェクト
  • Aのみ(Bなし)
    • 自然科学概念と接続した相関的研究。「脳科学に基づく英語学習!」系の与太話
  • A・Bいずれもなし
    • 典型的な人文学的研究

こうしたことを,以下の本を読んでいて思いついた。この本では,「科学的」という言葉が繰り返し繰り返し出てくる(ポジティブなニュアンス)。意味は完全に「Bのみ(Aなし)」のタイプ。英語教育研究は,むだにAにも多少配慮があるので,「科学的」の意味が(科学支持派の間でも科学批判派の間でも)混乱していることがよくあるが,この本はAのニュアンスがほとんどないのでスッキリ。

お知らせ:修論指導に関して

私(寺沢拓敬)は,2024年度から,関西学院大学大学院言語コミュニケーション文化研究科における修士学生を受け入れるようになりました。いわゆる「修論の指導教員」という意味です。私の研究室で修士学生として研究を希望される方は同研究科受験をご検討ください。直近は,来年(2024年)2月の入試です。

www.kwansei.ac.jp

受験予定の方は私の指導可能なテーマとのミスマッチを避けるためにも,一度ご連絡をいただけるとありがたいです。

事前連絡は必須ではありません。合格可能性にも影響ありません。

しかしながら,万が一ミスマッチがあるとお互い時間とリソースの無駄になってしまうので推奨しています。 逆に言うと,私の専門分野ど真ん中を研究テーマとする方は,研究上のミスマッチはまったくありませんので,連絡頂く必要はあまりないように思います。

私の専門分野は以下です(念のため)

  • 日本における英語教育政策
  • 日本における英語教育制度の歴史
  • 日本社会における人々の英語使用・英語観・英語教育改革への意識などの分析。とくに計量分析(※質的研究でもOK)
  • 批判的言語教育(マルクス主義理論,社会学理論等)のアプローチに基づく英語教育・学習や英語観,英語イデオロギーの批判的分析

反対に,以下の分野は,よく間違えられますが,専門にしていません。

  • 指導法
  • 教室指導,とくに批判的言語教育(マルクス主義理論,社会学理論等)のアプローチに基づかないもの
  • 第二言語習得
  • L2動機づけや語学ビリーフなど,批判的言語教育(マルクス主義理論,社会学理論等)のアプローチに基づかない情意面の研究

上記の中間にあたるテーマはご相談いただいたほうがいいかもしれません。たとえば,

  • 他国の英語教育政策・制度
  • 教室研究だが,批判的アプローチに大いに基づくもの
  • 英語以外の言語イデオロギー・言語政策等に関する批判的研究

以上。

「日本人の英語力は87位」という怪しいランキングを吹聴する人がいますが、マスメディアや識者は安易に飛びつかないようにして下さい。

お断り:この記事は,1年前のほぼ同名記事を,ごく一部に加筆したうえで,再掲したものです。


怪しい英語力ランキングの季節

11月は,英語教育関係者にとって頭が痛いニュースが流れる時期です。

それは,「日本の英語力は世界で××位!また下がった!えらいこっちゃ!」というニュースです。

なぜ11月かといえば,その年の「EF英語能力指数」が発表されるのがこの時期だからです。

今年も,11月8日に2023年版のランキングが発表される予定とのことです。日本の順位は,本記事の本文内には書かないので,ググるなどして調べて下さい。

「EF英語能力指数」と聞くと何やら権威がありそうです。英語で EF English Proficiency Index と書かれるともっと凄そうに聞こえます。しかし,実際の作りは,以下に説明するとおり,かなり雑です。巷には怪しいランキングが溢れていますので「お遊び」でネタにするならまだわかりますが,大手メディアが大真面目に取り上げる代物ではありません。

数年前から,私は「日本人の英語力が××位!」という話がいかに根拠がないか,そして大手メディアはこの情報にとびつかないでほしいとヤフーニュースで発信してきました。しかし,大手メディアのいくつかは(批判的吟味なしで)そのまま報じてきました。ウェブメディアにいたってはさらに状況は深刻で,引用するライター・評論家が跡を絶ちません。とくに日経新聞さん,今年こそ報じるのをやめてください!

英語力ランキングの怪しさ

EF英語能力指数は,EF社のオンライン英語力診断テストを受験した人々の成績をもとに算出したものです。ランキングは,受験者の平均スコアを国別に算出して,それを上から順番に並べているわけです。したがって,各国民を偏りなく調査した統計ではなく,その英語力診断テストを受験した人々の平均値に過ぎません。

「でも,実際の値からちょっとくらい偏りやズレがあったって,おおよそが分かればいいのでは?」と思う人もいるかもしれません。しかし,そのズレが「ちょっとくらい」であるかは未知数なので,「おおよそが分かる」かどうかの保証もありません。なぜなら,このテストの受験層がどういった人たちなのか,想像することはかなり困難だからです(ここが,TOEFLやIELTSのような伝統的な英語テストと大きく違う点です)。

「英語ができないし学ぶ気もない人」は英語力診断テストを受けないでしょうし,逆に,「既に英語でバリバリ仕事や勉強をしている人」も受験するインセンティブはゼロ。英語学習中の人であっても,既に他のテスト(TOEFLなど)で自分の実力を把握している人は受けないでしょうし,そもそもこのテストの存在を知らない人も対象者から抜け落ちます。また,国にもよりますが,インターネットへのアクセスが限定的である人も対象に含まれません。

したがって,多少の順位の差は,ほとんど無意味な情報です。たとえば,「何々国の順位は××位!日本よりも10個も上!日本人は英語力でも負けている!」のようなまとめ方は,間違いです。もっとも,順位がたとえば四,五十以上違う上位層グループ(たとえばシンガポール)との比較であれば,それなりに実態を反映しているでしょうが,(準)英語圏と非英語圏の間で英語力の差があるのは当然であり,このランキングをわざわざ参照する必要はありません。

上がったか下がったかもわからない

各国の順位・スコアの差に意味がないのとまったく同様に,ある国の年ごとの推移にも意味がありません。

前述の通り,その国のどんな層が受験しているか不明ですが,これとまったく同じことが,各年の受験層にも言えます。受験者層は,年によって流動的であるため,たとえば,2021年と比べて2022年が下がったとしても,その原因が日本人の英語力が下がったためなのか,それとも,英語力の低い受験者が増えたためなのかはわかりません。

実際のデータを丁寧に見ると,怪しさ満載・・・

ちなみに,このランキングの怪しさは,実際のデータを見ても理解できます。

その筆頭が,スコアの乱高下です。点数が毎年大きくブレており,この点からも信頼性の乏しさは一目瞭然です。

以下の図をご覧下さい。得点の換算方法が2020年に変わっているので,2019年までのデータをもとにしています。

このランキングによると,日本は,少し前までは英語力が比較的高い国でした。 2011年においてインドより上,2012-2015年において香港より上だったわけです。 いくらなんでもそんな「実態」を信じる人はいないでしょう。 ご存知の方も多いと思いますが,インドも香港も英語は公用語の機能を果たしています。

各国の推移(EF社レポートをもとに筆者が作成)

おもしろいのは(いや私はおもしろくないですが),10年前の日本の位置です。

図の縦軸の50.0 が平均ラインですが,2011年頃の日本はこれより上に位置していたのです。図を見る限り,「上の下~中の上」です。「日本人の英語力は低い!」と言う人(この主張は正当だと思います)の多くが,当時は,「日本の英語力がそんなに高いはずがない!このランキングは信頼できない!無視!」と言っていたと思います。つまり,データに基づいて意見を言うのではなく,意見に基づいてデータを取捨選択しているわけですね。私が批判しているのは,「日本人は英語が低い」という主張ではなく,こういう結論ありきのデータの使い方なのです。

次に,データが入手可能なすべての国の状況を見てみましょう。

データに欠損のない81の国・地域の推移。筆者作成

乱高下はさらにはっきりと見て取れることがわかると思います。

もしそのスコアが国民の英語力を適切に反映しているとすれば,1年でこれほど乱高下するはずがありません。 もちろん,その国の国民や政府が前年に行った改革努力が現れている可能性はあります。しかし,国民全体の能力開発が短期間で大きく向上することは考えにくいので1,乱高下は,改革の成果ではなく,受験者層の変化をを反映していると考えたほうがよいでしょう。

そもそもEFは,代表性に注意せよと言っている

なお,EF社は,スコア報告書の中で,disclaimer としてこの指標の限界点に言及しています。とはいえ,まるで各国が競っているかのようにプレゼンテーションするのは,ミスリードを狙っていると思われても仕方がないような気がします。

そもそも,この指標がEF社の営利目的によるものという点も注意すべきでしょう。第一に,このランキングは同社の英語力診断テストの「副産物」であり,第二に,そのプレスリリースは,同社がプロモーションの一環として行っているからです。正確な実態把握を目的とした調査ではないのです。


  1. 例としてGDPと比べるとわかりやすいと思います。GDPランキングって乱高下していますか?

(追記:録音アップしました)EF英語能力指数2023発表直前緊急スペース開催

後日談(追記 2023年11月18日)

無事にスペースが終了しました。録音がありますので,様子を知りたい方はお聞きください。途中で音声トラブルが発生し,前半と後半にわかれてしまいました。




告知

明日(2023年11月5日)の22:30から「EF英語能力指数2023発表直前緊急スペース!」を開催します。https://twitter.com/i/spaces/1dRKZEwbRerxB/peek

共同ホストに,「英語業界のおかしなランキングを考える会」の会員のお二人(以下)をお迎えしてお送りします。

議題は, (1) 今年の日本の順位は? (2) 1位の国は? (3) 今年も報道するマスコミは現れるのか? などです。

物申したい方,歓迎いたします。私までDMください。

参考情報

日本のこれまでの順位
  • 2011: 14位
  • 2012: 21位
  • 2013: 26位
  • 2014: 26位
  • 2015: 30位
  • 2016: 35位
  • 2017: 37位
  • 2018: 49位
  • 2019: 53位
  • 2020: 55位
  • 2021: 78位
  • 2022: 80位

これまでの第1位の国

EF EPI rankings 2011-2022