こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

メモ:人は、英語について語るとき英語「教育」についても語っている

つまり、言説レベルでは、英語の問題は英語教育の問題に接続されるということである。これは、ごく当然のことだと思う人も多いかもしれない。


では比較対照するために、「歴史」について考えてみよう。歴史について語ることは、学校教育を想起させるだろうか。そうともいえるし、そうでないともいえるが、英語のときのような強烈な接続関係は感じられない。社会化教育・歴史科教育からはわりあい自由に、歴史に思いをはせることができるのではないか。


その背景とはなにか。


まず、「日本人」は、学校英語教育という「共通の遺産」を持っていると想像している。この「遺産」は、必ずしもよいものではなく、「負の遺産」でもありえる。むしろその性格のほうが強いかもしれない。もちろんこれのすべてが「想像の産物」に過ぎないわけではなく、ある程度「実態」を伴ったものであるだろう。しかし、被教育経験は多様である。たしかに日本の教育制度の均質性は高いが(苅谷剛彦著『教育と平等』(中公新書、2009))、それはあくまで制度的な均質性である。人間は多様であり、経験はその多様性と交互作用を起こす。


同時に、「日本人」は、学校「外」で英語を経験していないという「想像」も共有されている。これも確かにある程度は実態を捉えているだろうが、同時に、ある程度は捉えていない。繰り返すが、人間は多様である。したがって、経験も多様である。また、定義も多様である。「いわゆる“英語”」---例えば、英米人や異なる母語の話者どうしが使う「生きた英語」---を「英語」だと同定しなければいけない合理的な理由はない。「英語」の定義は、人、時間、場所、状況もろもろの交互作用によって変容する。