こにしき(言葉・日本社会・教育)

関西学院大学(2016.04~)の寺沢拓敬のブログです(専門:言語社会学)。

Phillipson 2010, Chap. 1 要約

Linguistic Imperialism Continued以下は、

    • "The study of continued linguistic imperialism" (pp.8-25)

の 要約です。本章は書き下ろしです。なお、各節の見出しは要約者が勝手に付けたものです。

(わりときちんと整形している)PDF版は以下のリンクからどうぞ。


   *   *   *   *   

はじめに

  • 本書の構成について
  • 本書で取り扱わないこと
    • 言語権
    • ヨーロッパにおける英語

「英語支配」の現状、概観


英語/英語教育/英語による教育が社会的成功/発展の特効薬になるという信頼(信仰)が世界中で高まっている。また、ネイティブスピーカーによる英語教育に対する(過剰な)期待も見られる。こうした(幻想の)信頼感の根底にあるのは、『言語帝国主義』第七章で示した「5つの教義/誤謬」である。

  1. 英語だけの指導が最良
  2. 母語話者の指導が最良
  3. 学習開始は早いほど良い
  4. 英語への接触は多ければ多いほど良い
  5. 他言語を用いると、英語の水準が下がる

こうした言語観(言語教育観)は、英語(教育)ビジネスに通底しているものである。同様に、様々な英語教育事業も純粋に利他的な「援助」を目的としているわけではなく、様々な政治経済的利害が伴っているのである。


また、グローバリゼーションが進行する現在において、「帝国」が重要なアクターとなっている。近年の合衆国の外交政策はその典型である。「帝国」的なグローバリゼーションに起因する英語教育が、ローカルの言語教育実践にも影響を与えているのである。

『言語帝国主義』への批判(Pennycook 2001: 59-63)に対する応答

(1)

「言語帝国主義論は、英語帝国主義(あるいは、英語の拡大)によって「帝国主義」が形作られるという視点がない」というペニクックの視点はそのとおりであり、たしかに、言語帝国主義論の問題点は、言語政策それ自体が不平等/支配に寄与する働きを描き出せていないという点である。

(2)

ペニクックは、私を「英語教育慎重派」のように捉えているが、「学ぶべきではない」のようなことを言った覚えはない。私の真意は、英語以外の言語を排除するような英語教育を廃止すべきだというものである。

(3)

ペニクック(そしてカナガラジャ)によれば、言語帝国主義論は「構造決定論」的であり、学習者の\ruby{主体性}{エージェンシー}、\ruby{抵抗}{レジスタンス}、\ruby{流用}{アプロプリエーション}を軽視しているという。しかし、そのような「ミクロを{\bf も}捉えるべき」という主張と、言語帝国主義論は矛盾するわけではなく、むしろ、そうあるべきものである。したがって、「構造的影響力を過大視したモデルであり、構造重視、潜在力軽視である」という批判はおかしい。ただ、個別的な影響(ミクロ)に比べて、構造(マクロ)は見えにくいというだけである*1

(4)

ペニクックによれば、言語帝国主義論は「『中心』の国家が『周縁』国家を搾取する」という経済還元主義でおり、(周縁の---寺沢注)文化を適切に扱えていないというが、そんなことはない。言語帝国主義論は、政治経済要因とイデオロギー要因の両者の弁証法的関係を取り扱っているからである。前述の「英語教育をめぐる5つの教義/誤謬」がそのイデオロギー的要因の証左である。

*2

英語の拡大に貢献する要因

ヨーロッパを中心に:

  • 構造的要因
    • グローバリゼーション
    • 合衆国・イギリスの言語政策
    • 高等教育政策
    • 労働力の域内移動
      etc...
  • イデオロギー的要因
    • 言語観/多言語主義への意識
    • 言語政策の意義への自覚
    • 広告・メディアにおける英語志向
      etc...

対抗言説のゆくえ

「英語の拡大」パラダイム vs. 「言語エコロジーパラダイム
応用言語学という「知」の問題

非政治的な応用言語学が自己充足的に発展することで、社会---特に社会的不平等・不公正---との接点が失われ、その結果、不正義に満ちた「世界」を肯定し、受け入れる素地として働く

*1:寺沢コメント
この部分の、フィリプソンの反論は、誤解に基づいているように見える。ペニクックらのいうところの「ミクロ」とは、構造的な支配に対して英語使用者/学習者が示す言わば「非従属的な」反応も含んでおり、単に「ローカルコンテクストで生じる」という意味ではない。一方、フィリプソンの「ミクロ」理解は依然、前述の「構造決定論的」(マクロがミクロに反映するという考え方)であり、ここに引かれているいずれの例も「構造(=マクロ)に翻弄される使用者(=ミクロ)」という図式で理解できるものばかりである。

*2:寺沢コメント
この部分のフィリプソンの反論も、上記と同様、誤解に基づいているように見える(ペニクックの書き方もミスリーディングだと思うが)。本文に即するかぎり、フィリプソンは「文化」を「\ruby{価値}{バリュー}/\ruby{信念}{ビリーフ}」と読み替え、そのような「上部構造」を成す要因が、政治的/経済的/制度的な条件に規定されている(「相互に規定し合っている」ではなく!)ものであると捉えているように読めるが、こうした理解は典型的な経済決定論的なモデルである。ペニクックが問題にしている「文化」とは、政治経済構造に規定されつつも、そこから逃れようとする実践の動的な側面であり、フィリプソンによる「文化」の定義と根本的に異なると思われる。